人口が増加し始める大正以前から市街地であった城乾地区を例にとれば、1978年には1,909人(※ここで挙げた人口は、富屋町、浜町、本町、塩飽町、大手町、通町の合計)であったのに対し、1988年には1,442人、1998年には1,087人、2008年には1,024人と、30年前の人口から半減しており、その人口減は顕著に見出せます。
城乾地区は丸亀城の面前にあり、江戸期から続く中心商業地を抱える、いわば丸亀市の顔となる地区といえます。この城乾地区の商業が衰退し、地区住人の人口減少がこのまま続けば、丸亀市のアイデンティティともいえる歴史的エリアの崩壊、伝統文化継承の問題など、これまで培ってきた代替が効かない丸亀文化の喪失を引き起こし、これは城乾地区の問題に限らず、丸亀市全体あるいは香川県全体にも関わる問題といえるのです。また、昨今議論が進む環境・エネルギー問題や、超高齢化社会の進展という観点からも、コンパクトシティ化が目指されるべきであり、まちなか定住の促進は極めて重要な政策課題といえます。
|
旧丸亀市(2005年合併前)の「まちなか」「郊外」の人口推移 |
●コミュニティの主体づくり
こうした問題背景のもと、研究室では丸亀市都市計画課と協働し、3〜5箇年にわたり「まちなか居住促進を狙いとしたコミュニティの主体づくり事業」を実施する計画です。
まちなかの再生、あるいは中心商店街の活性化を目的として、全国各地で様々な施策が実施されており、そうした施策のバリエーションやアイデアは数多く存在しています。しかし、こうした施策のバリエーションの多さに比べて、持続的にまちなか再生・商店街の活性化が取り組まれている地域はことのほか少ないのが現状といえます。こうしたギャップが存在する最大の要因は、計画や施策を実行するための主体(コミュニティの担い手)が存在しているかいないかにあります。どんなに効果的な施策やアイデアが計画されたとしても、そうした施策を実行し、次の一歩を踏み出すコミュニティの主体が存在していなければ、持続的に改善を繰り返す「まちづくり」を進めて行くことは困難であると言わざるを得ません。
そこで、このプロジェクトでは「コミュニティの主体づくり」を具体的な目標に、まちなか定住促進に向けて将来的に利害関係が発生しうる人々や組織に広く参加を求める形式でプロジェクトを進めていきます。
|
まちなかの古民家を再生した「秋寅の館」にて
|
金毘羅街道の起点となる「太助燈籠」
|
●歩いて楽しいまちを目指して
欧米諸国においても、1970年代から80年代にかけて旧市街地(中心市街地)の空洞化が社会問題となりました。しかし、現在、特にヨーロッバの諸都市に訪れると、旧市街地の再生ぶりには目を見張るものがあります。他に2つとない味わい深い旧市街地のなかに、現代的な店構えをした個性的なお店が軒を連ねています。大きな道路沿いに建つ郊外型店舗にはない、歴史と文化に裏打ちされた味わい深い店舗群に、観光客だけではなく地元の若者たちも惹きつけられています。
|
車道を歩行者空間に改修(バルセロナ・スペイン)
|
夕食前のひととき、海岸沿いの散歩風景(サレルノ・イタリア)
|
車の通らない街の広場にて立ち話(マテーラ・イタリア)
|
トラムの導入で車を排除、歩行者との共存(セビリア・スペイン)
|
規模拡大社会を終えた日本において、まちなかに集まって暮らすこうした諸外国の事例は、人口減少高齢社会を生き抜く成熟した都市のあり方に大きなヒントを与えてくれます。また、まちなかを歩いて楽しいまちへと改修していく施策の方向性は、クリエイティブシティ論(佐々木雅幸先生)や創造的福祉社会論(広井良典先生)など理論的な研究によっても支持されています。
本プロジェクトでは、丸亀市のまちなかをいかにして「歩いて楽しいまち」へと変えていくか、まちなか商店街の空き店舗を拠点として、様々な提案型プロジェクトを実践していきます。特に、1924年当時の丸亀市街地の地図が雄弁に語っているように、戦前のコンパクトに収まっていた丸亀市街地の姿を大きな手掛かりとして、歴史と文化の文脈から「歩いて楽しいまち」を構想していきます。
丸亀の都市構造は、「港」-「駅」-「町」-「城」という構造で成り立っています。しかし、戦後の都市開発、モータリゼーションの進展により、「港」-「駅」-「町」-「城」という構造が生活の上で重要な意味を持たなくなってきました。その結果、「港」「駅」「町」「城」がそれぞれ個別の施設へと転化してしまい、都市構造がみえない、いわば骨格のない都市となっているのが、丸亀市の現状です。「港」-「駅」-「町」-「城」という構造をもう一度構築するべく、我々は「戦略的都市軸」という概念のもと、「港」-「駅」-「町」-「城」をつなぐ帯状公園化構想の検討を進めていきます。
|
|
|