ポストモダン

堀 啓造(香川大学経済学部)

Gergen(1991)のポストモダンの考え方の紹介とそれに関してのエッセーをさるメーリングリストに書いたものを整理してみました。メーリングリストの砕けた調子は残っています。
 消費社会論のリンク集もあります.

counter: (1999/4/18からの累積) 最終更新日:

最近、新聞などで、80年代は何だったんだろうというような論調が目立ちます。いわゆるポストモダン騒ぎというのか、感性ごっこ。1997年1月28日の日経新聞の読書欄ウエーブでも『「80年代的感性」のゆくえ−「消費」礼賛後の低迷』という記事があります。

消費社会論など社会学系の場合、表面的な現象から物事を読み込んでいきますから、消費社会が消費に狂騒したように総括できるのかもしれません。

ではポストモダンは感性<註>なのかというと、そうではない。それは、浅田彰『逃走論』(ちくま文庫)で書いていたようにスキゾという面でしょう。それにしても彼の書き方は浅かった。

Gergen,K.J.(1991)The saturated self:Dilemmas of identity in contemporary life. Basic Book.
は、自己に焦点をあててポストモダンを考察している。
しかし、self についてナイーブな人には危ないかもしれない。危険を回避するために少し解説を入れる。自我について船津(1995)をベースにしながらまとめると次のようになる。いわゆる本当の自我というものはない、それは作られるものだ。ここまではよくいわれているのですが、そのあとのフォローがいい。他人に対しても自我に対してもコミュニケーションを考える。「意味づけし、解釈する存在」がそこにある。それによって、世界像を自分のものに確立していくのです。また、世界は与えられたままではないということです。

(1)ロマン主義(2)近代主義(3)ポストモダンの人間像を対比的に描いていていい。とくに、ポストモダンの多元主義のあたりがここまで来るかというところまで描いている。
・ロマン主義 19世紀の典型的な人
     (深い内面を重視する。魂とか愛、友情、想像、超人・天才など)
・近代主義 20世紀の典型的な人(理性と観察重視,自律、因果律)
・ポストモダン(最近)的な人(多元主義。関係)
ポストモダンにいたるのが、20世紀のテクノロジーによって飽和した社会とpopulated self および、客観的真実が保証されなくなったことなどによると分析しています。

(1)ロマン主義では内面深く掘り下げ、真実があると信じます。

(2)近代主義は大きな物語があるといわれていますが、ここでは方法が重視されており、あまり深く内面を掘り下げるということはありません。観察重視ですから当然内面奥深く入ることは否定します。心理学の行動主義などはその典型です。しかし、つきつめていけば真実にたどりつけるかもしれないと思っています。大きなこと(未来)のために現在を犠牲にしてもいい。

(3)ポストモダンでは真実はないのだというところから出発します。言語能力を疑い、さらに言語は現実を反映しないと考える。そしてその発話はイデオロギーなどに汚染されている。プラグマティズムのいうように、よりよいことはあるかもしれないが、いくらいっても真実はありません。すべての実在は否定されます。ということで、自己が実在することも否定しています。あるのは「関係」<註>もしくは状況です。このあたり日本的発想ですね。「甘え」なんかも引用されていましたが、「間人主義」です。人の記憶の例でも、精神分析家がその人を分析していって、本人が語った過去から問題点を見つけだし、うまく治療します。しかし、その過去は事実に反していた。そういう例があるということです。自己は新たに書いたり、消したり、書き換えたりするものです<註>

で、どうなるのか、要するにポストモダンでは表面的なことが中心となり、たとえ深く掘り下げても真実などないのです。

 精神科医の大平健の一連の本は、表面的なことしか考えなくなった、人々の世界を具体的に描き出しています。

『豊かさの精神病理』(1990年、岩波新書)では「モノ語り」をする人間を描いています。あるブランドやファッションなどにはとても詳しく分析的に話すことができます。また、自分の体もそれをモノのように栄養剤補給やシェイプアップ、ボディビルをします。このように外に現れたものには強い愛着をしめしているような行動をします。しかし、愛のようなものはうまく、真摯に扱うことができません。また、自分の内面の葛藤もうまく処理できなくて精神科医にきてしまったりします。
『やさしさの精神病理』(1995年、岩波新書)では「やさしさ」や「愛」のように相手の内面に入るはずのものが、相手の内面にはいらないままおこなわれていることを示します。恋人同士でも話し合わない、ただ一緒にいるだけのほうがいいのです。そして、葛藤を処理できなくてやはり精神科医にきてしまったりします。友達には悩みを打ち明けられないのです。悩まさないのがいい友達関係です。<註>

この2冊を読むとこんなに軽くにしか分析(治療場面と本に書いてること両方)しないのに驚きを感じます。

『拒食の喜び、媚態の憂うつ−イメージ崇拝時代の食と性』岩波書店 1996年刊
この本では理論的なことも扱っています。また、事実としても面白いことを書いています。フロイトのいう超自我は当時のヨーロッパにはありえた。ここには「本物の自分」(超自我)と「生活している私」(エス)という考え方がある。今はそういうものは形成されない。自我なんかなくて大きな力に自分をゆだねようとしている。

アメリカでは「自分アイ」と「私ミー」(生活している自分)で、最初はミーが本物であったが、後にアイが本物になる。で、このアイが心像になっていく。たとえば幸福な家族。ま、このあたりの経緯についても面白いことをいっている。セルフとは「自分」がかくありたいとイメージすること。「自己発見」とはそのようなイメージを明確にすること。「自己実現」とはイメージ通りの人間になること。そうだったの。日本と同じじゃん。

ピアスの「自由」

「...何か自分が重いじゃないですか、気分が。耳に小さな穴あけてもらっただけで軽くなって、本当の自分って言うんですか、見つけた気、したんです。」という少年.「重い」「軽い」というイメージが「生活している私」と結びついている。で、ピアスで「私」から「自分」が自由になった。リセットしたというのが「軽い」または「本当の自分」を見つけたということ。

とまあ、内面を掘り下げない様子がよくわかるものとなっている。で、イメージのほうはどうなっているかというと、Gergenでは、外部から直接はいってきている。テレビや親や友達や先輩からのたくさんの言説が頭のなかに直接入っている。実際に行動するとき、なにをしても、Aの考え方ではいい方法で正しいが、Bの考え方では悪い。などとすべての行動は両方の価値をもってしまう。そのように互いに矛盾したいろんな考えが頭の中に植民してしまっている。いろんな考えのあふれる飽和した社会のいろんな考えを植民された自己がいるという。ヘーゲルの「教養の国」の状態ですね。

 そういう浅い、表面的な、矛盾した自己がいるわけです。近代主義のように徹底的に対決させることもせず、ロマン主義のように内面を掘り下げることもしない。多元主義の相対主義の状態なのがポストモダンというわけです。

そこで、古い頭でいきなりギリシャ古典をやれというマッキンタイヤーみたいなひともでてくるわけですね。日本のように詰め込み教育をやって考えない世界だと、伝統や歴史を強調する人でも日本の伝統といってもせいぜい自分の生きた年齢+2、30年で大したことないですけど。まあ、それとは違う問題があることは確かです。

心理学の自己モニタリングというのはポストモダンな人を測るものになっている。自己モニタリング尺度の得点が高い人は、場面を読みとりそれに応じて演じることができる人です。

テレビで街頭インタビューや、外国での反応をよく報道するのは、セルフ・モニタリングが高いせいでしょう。
テレビの番組で、討論番組が増えているのもこういう傾向の一環でしょう。さらに、わたしなどは不思議でしかも見る気をなくさせる、歴史に関して加山雄三などの素人さんがコメントする時代になってます。これもポストモダン現象の一環です。授業なども同じで、高いところから低いところに流すという近代主義の講義はもう学生には困ったちゃん現象でしかないでしょうね。ゼミ形式は知的トレーニングと思っているかもしれませんが、みんなが対等に話すことがポストモダンです。おっと、本当はみんながバラバラに話すのがポストモダンです。授業なんかやってられんぞ。

そういえば、勉強という意味で、
半田智久『知能環境論』NTT出版(1996)
はポストモダン的な考えを表していると思います。「知のアフォーダンス」の章がとくにそういう考えを示しています。(この本では「ホットインテリジェンス」がいいですね。)

ポストモダンがなくなったと考えるのは間違いでしょう。ポストモダンはいろんな現象としてでてくるもので、たんなる消費社会ではありません。情報が多く流れ、テレビなどをいつも流している状況では、考えを深めることもできないまま、現象に流れてしまうのです。深く考えても現象に流されちゃうかもしれません。要するに、今は小さいときから忙しいのです。そして情報をいっぱい持っている。これがポストモダンの主たる原因です。だから、これからも表層を漂うでしょう。そしてなによりも関係が大事なのです。

Gergen の描くポストモダンの像はある意味で分析哲学系の世界のようです。奥にはまったく入っていかない。形式的な手続きで問いかけそのものを排除してしまうことが多い。すでに廃刊になった、筑摩書房の「頓知」という雑誌、1996年5月号。
土屋賢二「ナンセンスの疑い」p42-53
「わたっしはだれ?」という自分探しの問いがもつナンセンスを徹底的に論証する面白いエッセー という惹句がついています。実際面白かった。分析哲学系の論証の仕方を知るのにいい。

Gergenのポストモダンで重視しているのは会話です。多元はばらばらではなくある種の歩み寄りや理解が必要です。そのとき対話なくしてなにもありません。ハーバーマスは対話的理性とかいってます。未完のプロジェクト−啓蒙主義でもやはり対話しかないのです。しかし、そこでしゃべっていることが自己の内面からでたものとは考えないのがポストモダンです。どうなるっちゃ。
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現在でもこの3つのタイプの人は平行して存在しています。比率は変わっても将来もそうでしょう。いろんなタイプを認めるのが多元主義です。さて、一人のなかにもこの3つが存在しているようにも思えますがどうでしょう。


<註>

ポストモダン

ポストモダンの議論はたくさんある。社会学の系統でもいろいろある。ポストモダンの状況として、消費社会(正確にはconsumer society消費者社会) を言っているものに、例えば次のものがあります。読んでおいて損はないでしょう。
デイヴィッド・ライアン(1996)ポストモダニティ せりか書房
Lyon(1994)Postmodernity. Open University Press. or Michigan U. press
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<註>

80年代感性

感性に関して言えば、多く接すること、またいいものだという判断に多く接することなどで、磨かれていくものですから、いろんなものと接することでそれらはある程度やしなうことができるでしょう。しかし、実際にはいいものが多く売られたということが一見消費者の感性があがったように思えたのかもしれません。つまり、感性のある人や感性があるようにみえる人が一時期より大いに増えたということはできるでしょう。
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<註>

逃走論

文庫の出版は1986年、もとは、1984年、関係する記事は1983年にでている。早い。
Gergenのp229に「ポストモダンの観点は相対的な現実の可能性とその増大した感覚の魅惑的な戯れへと道を開く」とありますが、このあたりも浅田の指摘と似ています。
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<註>

自我

船津衛(1995)「自我」の社会学 『岩波講座現代社会学2 自我・主体・アイデンティティ』 1995(岩波書店) p45-68
これを読むことをお薦めます。
この本では浅野智彦「近代的自我の系譜学1」p107-120 も読むに値するものです。
本当の自己がないという議論は、社会学ではよくされていることです。
この点についての徹底的議論はつぎの本を参照のこと。 トリリング(野島秀勝訳)『<誠実>と<ほんもの>−近代自我の確立と崩壊−』筑摩書房そのあと法政大学出版
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<註>

自己の解釈

自己は解釈するものであるという主張は例えば、カナダの政治哲学者で自己について精力的研究をしているCharles Taylorは人間は自己解釈する動物である側面を重視している(マイクル・カリザスほか編『人というカテゴリー』紀伊國屋書店p471)。
下條信輔『サブリミナル・マインド』中公新書(1996)も自分を他人のように解釈している点をいくつかの心理学研究の成果から説明している。
つまり、自分で自分を位置づけるという面が重要。そういう意味では、自分が何者であるかは、他者の働きかけ、自分の行動、自分の思索、その結果等に対する自分の解釈が重要でしょう。
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<註>

プラグマティズム・多元主義

多元主義、プラグマティズムの紹介として、次の本がいい。ローティのプラグマティズムの紹介として説明されている。 渡邊二郎『英米哲学入門』筑摩学芸文庫1996

p45
この「客観性」を重視する「実在主義者たちrealists)」は、「真理を」実在への対応と見なす。一方、客観性を連帯性に「還元」しようとする「プラグマティストたち」は、「真理」を「私たちがそれを信じたほうが善いものwhat it is good for us to believe」と見なす。

p46
「相対主義」の3種の意味がある。
(1)「どの信念も、他のどれとも同じく善い」
(2)「”真”とは曖昧な語で、正当化の手続きがあるのと同じだけの多くの意味を持つ」
(3)「或る与えられた社会−私たちの社会−が探求のあれこれの場面で用いる正当化の熟知の手続きの記述を離れては、真理や合理化については何も語られえない」プラグマティストはこの自民族中心主義の第3の見方を堅持する。

p48
ローティの立場が結局、「真」を「善」に還元する「プラグマティズム」の一種であり、しかも、より善い善を「共同主観的な同意」に求め、その同意の範囲のできるかぎりの拡大に努める「全体的」見方を採るものであり、それでいて「超文化的」な普遍性や絶対的な真理「基準」を拒否する開かれた態度を堅持するものである...。したがってその「相対主義」とは、単に様々な信念や見方を無節操に共存羅列させるものではなく、むしろ、「自民族中心的」な態度、すなわち「熟知」の、自己の経験の場、そうした「歴史」から出発する態度の表明であり、まさにこうした「没歴史的」な観点の却下が、その客観主義批判の根底に潜んでいたのである。

「自民族主義」というのがどの程度自民族かはわからないけど、学問領域ではやはり納得するための道具や手順についてそういう側面はありそうです。この種の考え方は西部らのいっていることですね。
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<註>

Rorty のプラグマティズム

渡邊氏の引用はRorty,R."Consequences of pragmatism" 1982(『哲学の脱構築』御茶の水書房,1985)などである。この本でいっているローティのいうプラグマティズムについては柄谷行人(『差異としての場所』講談社学術文庫 1996)でもポストモダンとの関係で言及している(同書p131-135「批評とポストモダン」もとは1985年)。
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<註>

関西学院山本昭二助教授コメント
 そうです。この辺りは欧米人にはにわかに受け入れがたい点です。日本人なら「自己改造」という言葉が成立しますが、自己の継続性が大事な文化では簡単に自己否定する人間は信用されないし、自己は変えられるものだとはなかなか理解できないですね。だから、自己改造のために朝晩走ったり、新興宗教に走ったりということがおきがちです。自己弁明の努力ですが、それなら誰かが夢枕にたってお告げをしたとかいう中世的な話しの方が楽そうですが。
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<註>

行動主義
『発達心理学辞典』ミネルヴァ書房1995 佐藤方哉
ワトソン(Watson,J.B.)によって1913年に提唱された、心理学は行動の科学であるとする立場。....
 ワトソンの行動主義には、(1)心理学は、私的出来事としての意識には手をふれず、行動を対象としなければならないとする方法論的行動主義、(2)心理学は、行動的概念以外の概念を導入してはならないとする概念的行動主義、(3)心身二元論を否定する形而上学的行動主義、という3つの側面があったが、その後に大きな影響を及ぼしたのは、主として方法論的行動主義であった。...
 ...心理学の目的は、行動を従属変数、観察および操作可能な出来事を独立変数として、その間の関数関係を明らかにすることである...。
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<註>

懐疑主義

近代のもっている方法論のなかに「懐疑主義」がある。なんでも疑ってみる。このことの行き着いた先が、「真実などない」という考え方だともいえる。健全な懐疑主義があっていいはずだ。懐疑主義については次のサイトが詳しい。
The Skeptic's Dictionary SKEPTIC Annotated Bibliography

真実はないの議論については、Gergenを読んでください。
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<註>

他人指向

「関係」というところで、リースマンの「他人指向」を考えた人はするどい。Gergenも引用している。ただし、VALSのいう他人指向とは違うのに注意しよう。ミッチェルもことばは借りたが、内容は違うことをはっきりいっている。VALS(v1)の他人指向は物質主義と結びついている。新しいVALSはこのような概念はない。新しいものと対応させれば地位指向ということになるだろうか。 The VALS Segmentation System

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<註>

悩まさない

最近の中学生の自殺でも親に悩みを打ち明けないのがいい親子関係です。このように、表面的にしかつきあわない、相手の内面にも、自分の内面にもはいっていかない。それが、現代的なのです。
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<註>

教養の国

ヘーゲル『精神現象学』にでてくる言葉。しかし、この部分のヘーゲルの記述は読みにくい。西研『ヘーゲル 大人のなり方』NHKブックス、加藤尚武編『ヘーゲル「精神現象学」入門新版』有斐閣、金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫などの入門書をいくつか読むことで、理解できるでしょう。この混乱について一番詳しいのは上の3つでは加藤尚武編の本です。
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<註>

セルフ・モニタリング
「社会心理学小辞典」有斐閣1994
セルフ・モニタリング self-monitoring
M.スナイダー(1974;1979)により提唱された概念で、状況の手がかりや他者の行動に基づいて、自分の表出行動や自己提示が適切であるかを観察し適切であるように統制すること。これは個人差があり、セルフ・モニタリングの高い人は、自分の社会的行動の決定に際に、行動の適切さを示す外的なてがかりを用いるのに対して、低い人は自分の感情や態度や価値といった内的手がかりを用いるとされる。
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例えば、結婚行動では、セルフ・モニタリングの高い人は、見栄えのいいひと(美しい、背が高いなど)と比較的短期間の交際で結婚するが、セルフ・モニタリングの低い人は長期間一緒にいた人と結婚する傾向があるという。
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<註>

recovered-memory therapy

ところで、精神分析というのか、精神分析医のなかに過去をほじくり返して、自分の経験していないものをそうであったと思い出すというのを紹介しましたが、今週のEconomist でそういう例を紹介しています。 しかも、そのために刑務所に行く人まででてくるのだから、単に解釈と笑ってはいられません。
ジャンプして読んでみてください。 Remind me one more time . . .(このあたり切れてます economics のサイトが検索できれば)
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<註>

分析哲学

分析哲学も渡邊二郎『英米哲学入門』ちくま学芸文庫が役に立つ。
とくに、p92

言語論的哲学者は、「常識と、科学と、語の使用への注意があれば、問題はみなとけるはずで、もし答えがでないなら、それは問いが「悪い」からだと考えるわけであり、もしそのような考え方が非難されれば、言語論的哲学者は「証明の責務」を相手側に投げ返して、こう挑戦するとローティは言う。すなわち、常識や科学の答えられぬ問いがあるのなら、「どのようにすれば、それを正確に記述したかどうかを知ることになるのか」を示してくれたまえ、これができないのなら、その問いは「悪い」問いであり、そして「伝統的哲学の問い」は「悪い」、「答えられぬ」問いではないのか、と。
...せいぜい、形式的に、「答えを評価するための基準」がないなら、「そうした問いを問うのを停止すべきだ」ということしか「前提」していないことになる

インターネット上のEconomist で、英国の哲学を考えていましたが、ヴィトゲンシュタインは行き過ぎたと思っているようです。ラッセルに戻っているという論調でした。
次のところにジャンプして読んでみてください。 The philosophers that Sophie skipped (このあたり切れてます economics のサイトが検索できれば)

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Kagawa University Faculty of Economics Keizo Hori(home page)

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