Books 1999/08


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パスカル・ブリュックネール(小倉孝誠・下澤和義訳)『無垢の誘惑』法政大学出版局 (1999) 消費社会の幼稚症と犠牲者根性


パスカル・ブリュックネール(小倉孝誠・下澤和義訳)『無垢の誘惑』法政大学出版局(叢書・ウニベルシタス635) (1999/3/5) \3,500

Bruckner, P. (1995). La tentation de l'innocence. Grasset.
目次
縮まる男
第1部 赤ん坊は人間の未来か?
 第1章 勝ち誇る個人あるいは無意味な王の戴冠式
 第2章 世界を再び魅力のあるものにする
 第3章 幼い大人たち
第2部 迫害への渇望
 第4章 苦痛による選民
 第5章 新たなる(男と女の)分離戦争
第3部 犠牲者たちの競合
 第6章 死刑執行人の無垢(セルビアのプロパガンダにおける被害者のアイデンティティ)
 第7章 心情の恣意性(哀れみの諸相)
 結論 反抗の狭き扉
1995年メディシス賞エッセイ部門受賞。

第1章はルソーを中心に自己意識,アイデンティティの問題を取り上げている。第1部は個人内の問題が中心である。第2部,第3部は民族や男女のようにグループ化されている問題,結論は,「正しい」個人主義から今まで論じてきた問題に対する対処が述べられる。

 フランス語のどのような単語が使われているのか分からないが,同一の語と推論される語が違う日本語で訳されている。例えば,序章と1章での「消費者運動」と2章の「消費主義」は同じ語のようだ。全体の流れとしては「消費主義」がよさそうだ。英語ではこの語はconsumerism と同一語である(消費者主義と訳す場合もあるが,この本の文脈では消費主義のほうが了解しやすいだろう)。ただ,この3つの章は同一の訳者となっているおかしい。タイトルの「無垢」と序章の「無邪気」は同じようである。無邪気は英語でinnocence,この本のタイトルではinnocence が使われている。原文を見ずにいうのは無責任であるが,なんだか,同一の人が訳していないようである。

全体の要約は序章である「縮まる男」に記されている。 p4
無邪気さ(無垢)
自分の行動の結果から逃れようとするこのタイプの個人主義の病弊,自由の恩恵を享受しながらその不便さを堪え忍ぼうとしない態度。無邪気さは「幼稚症」と「犠牲者根性」の2面にあらわれる。この二つは幸福なる無責任をつらぬく戦略である。

(1)幼稚症
 ここでの無邪気さは青年期にありがちの無頓着と無知のパロディーであり,永遠の未熟者という人物像において極まる。
 それ自体は正当な保護への欲求であり,かつ,子供の属性や特権を成年に達しても持ち続けることである。幼稚症は安心の欲求際限のない貪欲を含んでおり,面倒は見てもらいたいどんな些細な義務にも従いたくないという希望を表している。
 現代社会の幼稚症を絶えず助長し,生み出す現象がある。それは,「消費主義」と「娯楽」である。これらは恒常的な驚きと無限の享受という原理をもつ。「何物もあきらめるな!」

(2)犠牲者根性
 ここでの無邪気さは純粋主義と同義語であり,罪の意識が欠如していて,悪をなすことができないということを意味していて,いわゆる受難者という人物像のなかに具現化している。
 これは資本主義的な「楽園」に住む甘やかされた市民が,とりわけ不況のせいで資本主義というシステムの恩恵にたいする信頼が揺らいでいる時代に,迫害されている国民に倣って自分たちのことを考えようとする傾向のこと。
 誰もが自分に責任があると言われたくないし,とりたてて試練にあっているわけでもないのに,誰もが自分は不幸な人間だと思わせたがっている。p6

現代人に見られるパラドックス p7
(a)過度までに自分の自由に固執しながら,同時に他人の心遣いと援助を求める
(b)反体制派と赤ん坊という2つの相貌を兼ね備えようとする
(c)非順応主義と飽くことを知らぬ要求という2つの言語を操る

私人について当てはまることは,少数者集団や国にも当てはまる。第2部,第3部に私人でない部分に言及していてこれはこれで,また現状をよく分析している。

一番いいのはルソーが近代人と同じ自我の悩みを抱えていることを書いた第1章だった。
自分を理解できない彼としては,他人からよりよく理解してもらうことや,他人が自分にたいしていくらか寛容になってくれることなど期待できない。自我とは,私が知っていると思っている他者であり,私にとっても遠い近親者なのだ。(「私が自分が何であるか知らないし,自分が知っている者でない」と,すでに17世紀ドイツのフランシスコ会修道士アンゲルス・シレジウスが述べている。)われわれは各自が多数であり,この多数のあいだに交流はない。われわれは自分の情動を支配できるわけではない。われわれの望みとは関係なしに幸福がやってきたり過ぎ去ったりするし,幸福であるときはそれが煩わしく,幸福が逃げたときは悲しいのだ。(p19-20)
この部分がないと,次の一番いいところの理解は難しい。
(引用の,最後の2文は前の文章とは明確なつながりがない。ねじれたまたは途中を省略したつながりである。この本ではこのようなつながりかたの文章が突然紛れ込むことが多く,わかりにくくなっている。しかし,それが味になっている。)
唯一性のなかで多数であることを,自分に向かって正当化しなければならないということ,「(自分の)魂がはらむ奇妙で特異な集合体」を説明しなければならないということこそが,彼を苛立たせた。ルソーの根源的な悲劇はそこにある。われわれはみずからの無垢な出現において,けっしてありのままの姿で受容されることはない。われわれは自分が何であるかを絶えず証明しなければならない。その間に,神よりもはるかに残酷な新しい人物,すなわち他者が自己と自己の対話に介入してきたからである。……。ルソーが描いたのは神を持たない人間,人々が他人にたいして下す相互的な評価や判断という最大の苦悩に捉えられた人間である。神は恐るべき審判者かもしれないが,少なくとも唯一の存在であり,誤ることはない。人間が相手の場合,私は定めなく,捉えがたい審判者と関わることになり,その審判が絶えず私に下されているのに私はそれに応答できない。生まれるとは裁判所に出廷することにほかならないのだ。(p20)
これは,シンボリック相互作用論(ポストモダンの最初の部分[(1)の前まで]および野村一夫氏の自省式社会学感覚の自己アイデンティティ参照)に被害者意識を付け加えたものだ。自分は無垢であるが,周りが私の無垢を汚し,自分でないものを押しつけている。すべて自分以外の周りが悪いのである。

そして,自由であるということが災難をもたらす。
個人に付与された自由(意見の自由,良心の自由,選択の自由,行動の自由)は毒入りの贈り物,恐るべき掟の代償である。恐るべき掟とは,今やみずからを構築し,みずからの存在に意味を見いだすのは各人の務めだということである。 (p25)

近代人は,みずからが課してのではない義務から原則として完全に解放されているものの,潜在的には無限の責任を負わされてあえいでいる。それが個人主義というものだ。……。私人はあらゆる支えから切り離されたことによって,弱体化したのである。伝統,慣習,戒律といった保護の殻からはじき出された私人は,かつて以上に脆弱な人間になったのだ。 (p26)

私が私自身の主人であるとすれば,同時に,私は私自身の障害であり,私の身に降りかかる不幸や幸福を算定する唯一の人間でもある。これが現代人の不幸な意識なのだ。 (p23)

「私は生きるべく生まれたのに,生きることなしに死んでいこうとしている。」こうしてわれわれ各人は,「私はもっと価値ある人間だ,私は人々に慰めてもらう資格がある」という嘆きを小声で発することができる。……。個人は勝ち誇っているときでも,自分が敗者だと思いたがる。……。個人の苦悩は敗北の結果ではなく,進歩の結果なのである。そして個人は勝利者でありながら,相変わらず自分を迫害された者と見なしてもらうよう望んでいるのだ。(p38-39)

自由は人を拘束し,義務づけるために,その要求によってわれわれを虐げるのだ。自由というこの進歩は,ひとつの呪いでもある。(p39)
そして,自由主義はこのような世界を救済するために一つの発明をする。
産業社会は聖なるものを冒讀し,感情,価値,風景,自然資源を利潤や搾取という冷たい刃に委ねるという罪を犯した,というわけである。したがって資本主義の進歩は,ひどい凡庸化という代償を支払うことになろうし,……。このような状況の厳しさと冷たさにたいして,自由主義システムは消費主義というまったく独自のものを発明することによって応答したと言うことである。レジャー,娯楽,物質的豊かさはそれなりに,世界をふたたび魅力的にしようとする悲痛な試みであり,自由でいることの苦しみと,自己自身であり続けるという巨大な重荷を克服するために,近代性が示したひとつの回答なのだ。(p40-41)
 (消費者運動を消費主義に変更)
このようにして第2章につながる。第2章では消費主義を見事に描き出している。
小見出しを見れば,おおよその見当がつくようになっている。(明らかな豊かさ,絶えざる復活祭,崇高なる愚鈍,レジャーの禁欲主義,すべてをただちに,受け継ぐという幸福,飽くことを知らぬ要求,人生はお祭り,目を鎮める煎じ薬,皆の慰め,歌いながらの惰性,消費者は市民にあらず,人喰いの論理,幼稚な楽しみ,闘士のような白痴の肖像)

デパートやスーパーの魅力から始まり,クレジット,現金支払機,そして娯楽のテレビ,ショッピングへと攻め込んでいく。

スーパーマーケットに入ってみる,あるいは都市の商店街を通ってみる。……。かつて人々がはぐくんだ《黄金時代》のあらゆる夢がそこには集められている……。場所の広大さ,並べられている商品の驚くばかりの多様性,あふれるほどの光,何キロにも及ぶ商品陳列台,ショーウィンドーの巧みさなどは,まさしくユートピアさながらである。 (p44)
この余剰物の大聖堂においては,あまりに多くのことを望むことが誤りなのではなく,…,あまりに少なく望むことが誤りなのだ。……。消費社会に住むわれわれはすべて貧しいということになろう。なぜなら,すべてが過剰にあるために,われわれは必然的にすべてが足りないからである。
 デパートの魔力は,われわれを当面の必要という隷属から解放しつつ,その他の無数の必要を暗示することになる。唯一の快楽は,必要ないものを欲することである。……。デパートという喧噪の地に赴くのは,単にそこに買い物をするためではなく,そこではすべてのものが人々の手の届くところにあるということを確認するためなのである。富の神が存在し,その富に指で触れ,富に触り,富のにおいを嗅げるということを確認するために,人々はデパートにくるのだ。(p46)

……。豊かさを基準にして,世界はショーウィンドーに商品が満ちあふれている国々と,そこに何もない国々に分類されるのだ。前者はひと目見て暖かく,友好的であり,後者は冷たく,敵対的である。(p47)
現代世界はおそらく物質主義的だが,しかし否定という奇妙なしかたで物質主義的なのだ。なぜなら,世界はまずわれわれに帰属するものを捨て,物の獲得と同じくらいその破壊にも酔いしれるよう促すからである。(p48)

消費とは堕落した宗教,物が無限に再生するという信仰であり,スーパーがその教会で,宣伝広告はその福音書にほかならない。(p49)
商品は積極的で,共生的で,暖かみがある。…,物は友人であり,それ以上でもなければそれ以下でもない。「私を食べてください」,「私を飲んでください」「私を借りてください」と,身を任せるパートナーのようにせっかちに,物はそれを消費してくれるようわれわれに命じる。(p51-52)

宣伝というのは,魔術の快い形式のひとつでもある。宣伝が絶えず行っているのは,ものごとがわれわれを満足させるように協力し,われわれ各人を,完璧な奉仕を受けるに値する君主の地位にまで引き上げることである。(p52)
消費主義の論理というのは,同時に,そして何よりもまず子供じみた論理である。それはものに声明があるとする論理であるというばかりでなく,快楽の緊急性,贈与への慣れ,全能という夢想,楽しみへの欲求という4つのかたちをまとって現れる。(p57)
この子供じみた論理というのは指摘は著者自慢のところである。例でわかるものは例だけ挙げる。説明すると次のようになる。

消費主義の4つの論理

(1)快楽の緊急性−−クレジット,自動現金支払機

(2)贈与への慣れ−−生まれると同時にわれわれが手に入れるもの,例えばインフラストラクチャー,完成された都市網,先端的な病院,福祉国家が行うあらゆる種類の分配。歴史に対して,この世に生まれたこと以外にいかなる代価も弁済する必要がない。p59

(3)全能という夢想−−技術(メガネ,望遠鏡,カメラ,蓄音機,携帯電話など)魔術師やシャーマンのみがもつとされていたものをもっている。消費者にとって進歩とは何か?魔術の高等な形式にほかならない。p62

(4)楽しみへの欲求−−娯楽,特にテレビ

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そのあとも消費社会について,興味深い指摘をしている。いくつか挙げてみよう。
顧客とは何か?サーヴィスの分野で言えば,家庭で甘やかされる子供と同じような者,「私は欲しい,私は要求する」と宣言する王様にほかならない。(p58)

クレジットカードは,金銭の物質性を消滅させることにより,ものが無料であるという幻想をもたらす。(p58)

充足感の革命によって,われわれは日々クリスマスのような快適な環境におかれている。(p59)

貧しいひとたちが豊かになり,中流階級になったとき,彼らは自由時間を政治や文化に当てるのではなく,何よりもまず娯楽に当てる。(p64)

かつて人々は,つらい仕事から解放されてくつろぎたいと望んでいた。今では,どうしていいか分からない自由時間の退屈さから逃れようとしている。(p64)

現代人にとっては,日常性の重圧から逃れる方法が少なくとも2つある。戦争と娯楽である。(p65)

テレビは色彩と印象の流れを断続的に噴射し,われわれはそれを絶えずしゃぶっている。テレビは生きていて,ものを言う家具であり,平凡さに耐えうるものにしてくれるという機能を果たしているのだ。テレビはわれわれを落胆と惰性から救い,それを心地よい生暖かさに変えてくれる。それは他の手段を用いて無気力を継続することであり,テレビは広大な範囲におよぶ凡庸さの根本的な構成要素として組み込まれているのだ。 (p66)

《I shop therefore I am》我買い物す,故に我あり。それが,憂鬱や「存在の困難」を払拭するため常に「快楽主義の罠」にすがろうとする消費者のコギトにほかならない。ショッピングセンターを歩き回り,その楽園のような洞窟から発する柔らかい光を受け,甘美な声でうっとりするような商品の魅力に身を任せること,それは不在の定期購入者の立場に身を置き,自我を放棄し,他人と同じだという幸福を味わうことである。そのとき私は,あらゆる誘惑にさらされた一人の特性のない人間,「工業的に生産された個性」(デイヴィッド・リースマン),多様な影響の寄せ集めにすぎない。(p71)

ブリュックネールは商業社会に対する2つの誤謬を指摘している。ここでの商業社会は「消費社会」のことであろう。

商業社会に対する2つの誤謬(p71)
(1)商業社会が全体主義の悪夢に近い新たな異端審問だと弾劾する
(2)それを自由や市民意識を学ぶための確かな教育手段として賞賛する

(1)については今も少数のものが主張している。

(2)の主張
消費主義は人間がもっているもっとも粗野で単純な部分をみごとに活用し,もっとも高尚な目的のために役立てることきるだろう。購買者が享受する信じがたいほどの選択の自由のおかげで,われわれ各人はみずからを引き受け,自己に責任をもち,自己の行動と趣味を多様化するよう促されるだろうし,とりわけ狂信と集団への屈従から永久に守られるであろう。……,いくつかあるボトル容器に入った洗剤,テレビのチャンネル,あるいは数種類のジーンズの中から選択する……。スーパーの商品陳列台のあいだをカートを押しながら通ること,リモコンでテレビのチャンネルを猛烈に変えることが,そうとは意識せずにいわば平和と民主主義のために働くことになる。(p71-72)
「猛烈に」は訳書の言葉ではない。
(2)に対するブリュックネールの反論。
人々が消費するのは,まさにもはや個人や市民でなくなるためであり,根本的な決断をしなければならないという重大な拘束から束の間逃れるためなのだから。みずからの生を築き,自分を束縛するような,そしてそのあらゆる結果を予測することはできないような決断を下す人とは違って,消費者はすでに存在する製品の中から選択するだけであり,すでに他人が提示した選択肢の中で決心するにすぎない。消費者がするのはせいぜい,その選択肢を組み合わせるか,交錯させるこどだけなのである。(p72)
つまり,そこにあるのは,次のようなことである。
 何のための豊かさ,とディヴィッド・リースマンは問いかけた。不安を取り除くためである。そして,大量生産され,われわれの側にいる数百万という人々に衣服と,娯楽と,食糧を提供する規格品に忠実な態度をとることによって,わずかの費用で自分を個性化するためである。(p72)
消費主義に対する批判はさらに強くなる。
しかし,結局のところ,この豊かさが粗悪品や,稚拙な安物に似てくることを妨げることはできない。世界を再び魅力あるものにしようとするこの試みはパロディであり,このロマン主義はキッチュやまがい物のにおいがする。消費主義は不可避的に人々を失望させる。なぜなら,ものの購入や見世物からすべてを期待するように促しつつも,内的経験,自我の拡大,あるいは他人との持続的な関係といった,真の喜びを生み出してくれる唯一のものをすべて排除してしまうからだ。(飽食した人間はいつでも,与えられたものとは別のものを欲する。)……。それは「世界が貧困な」人間であり,自己を構築しまいとしてその日暮らしをし,その結果,愚鈍になってしまうような人間である。(p73-74)
 ()は堀挿入。註 括弧内は元からあるもの。
消費主義がそれで完結していればいい。しかし,そうはなならない。
スーパーに行き,テレビを見た後にはかならず生活があり,それこそが悲劇にほかならない。われわれが消費主義を批判するのは,それが愚かしいとか悲壮だからではなく,むしろ約束を守らず,全面的にわれわれの面倒を見てくれないからなのだ。……。熱狂の時期の後には,かならず憂鬱の時期がやって来る。メディア的,商業的なおもちゃは聖なるものの幻影を示してくれるにすぎず,宗教の属性である超越性の空間を樹立することはできない。われわれ全員を集団的,個人的に救済してあげようと約束したにもかかわらず,メディア的,商業的なおもちゃだけではけっして十分ではないし,もっと有効な他の支え,他の麻酔薬が必要になってくる。不快感や苦痛を解消し,社会的制御装置の役割を果たしてくれる精神安定剤,向精神剤,不安抑制剤などである。……。こうしてひとは,ものが過剰にあるための疲労感と,本来的なものが欠けているのではないかという恐怖心のあいだで揺れ動くのだ。(p74-75)
「社会的制御装置の役割を果たしてくれる精神安定剤,向精神剤,不安抑制剤」これが文字通りのドラッグである場合はさらに問題である。アメリカなどではドラッグがすでに多くの層に食い込んでいるし,日本でも蔓延しだしている。

しかもことは単純ではない。物質的なものを否定するだけではだめなのである。
 しかし,幸福は金銭で購えるものであり,さまざまな緊張感を鎮めることにあるとするこのような考え方が,たとえ誤りで失望感を生じさせるものであるにしても,事態は変わらない。われわれはまるでもっとも安易な傾向に従うように,この考え方に戻っていくからである。……。しかしそれは短い休息にすぎず,その後は再び新たな購入や,新たなくつろぎの機会を求めるための奔走が始まるのである。豊かさから逃れた人々も,自分たちの買い物によって完全に救済されることがけっしてないために苦しみ,豊かさから身を引き離すことができずに,たえずそこに戻っていく。……。それは支持でもなければ否定でもなく,不安なのだ。つまり,この世界にたいする批判をやめることもできなければ,世界がもたらす利益を放棄することもできない,なにものも放棄できないという状態である。 (p75-76)
消費じゃだめで,ブリュックネールはどうしろといっているかというと,
娯楽と同じで,消費はそれ自体にたいしてわれわれを訓育してくれるだけで,その道徳的,教育的価値は低い。同様にして,大衆文化はわれわれを楽しませてくれるが,解放してはくれない。……。使用者であるというのは,もっぱらみずからの利益を守ることに腐心し,……,みずからの特殊性にしがみつくことである。それに反して,市民であるというのは,みずからの個別的なケースを超えようとすること,みずからの条件を捨象することにほかならず,それは他者との連帯して公的生活を管理し,他者とともに権力を分かち合い,権力に参加するためなのだ。個人がみずからの私的な見解を一時棚上げし,公共の福祉を考慮に入れて,人々が平等に話し合い,お互いに協力して行動できるような公的空間に参入するとき,市民意識が生まれるのである。物的必要性からの解放は自由の条件のひとつにすぎず,自由と同義語なわけではない。(p77)
市民が民主主義の運命に無関心になってもよいと許可するのが,民主主義的な政府である。…,現代社会は絶えず自由よりも快適さを好むような立場に置かれている。……。もはやいかなる理想もそのために自己を犠牲にする値打ちもないし,生活より大事なものもないのだ(人道主義の理想でさえ,他者が生き延びるために奉仕することであり,他者の自由のために奉仕することではない)。(p79-80)
そしてもう一度消費主義に対する批判をする。
18世紀の人々が人類のもっとも高邁な目標だと称賛した叡知を獲得できないわれわれは,いくつかの側面においては絶望的なまでに前近代的である。 物質的な進歩がわれわれを「文明化」せず,まったく人間を改善してくれないからこそ,ある意味でそれはわれわれにとって不可欠なものなのだ。あらゆる人間に,あらゆる時に,望むだけ子供の状態を付与してやること,近代性がそれによって引き起こされる苦痛にたいしてもたらす解答は,そうしたものである。……。消費主義と娯楽の王国は,人権の総合帳簿のなかに後退する権利を書き入れた。それが快い退廃であり,甘美な安易さであることはまちがいない。しかし,不安を癒してくれる解毒剤も,一定量を越えると毒に変わり,新たな病気を生み出しています。……。快感原則の勝利は1960年代の大きなユートピアであったし,われわれはいまだにその夢想の中で生きている。すべてが可能であり,すべてが許されている,と宣言するこの幼稚な幻想を制限し,緩和するためにはどうしたらよいだろうか。(p82-83)
「文明」はフランスの文明であるので,「物質文明」は指さない。「叡知」や「精神的・道徳的成熟」に関した「精神文明」を指している。

3章に解決策があるのだけど,それより目を引くのが,快感原則の幼稚な幻想をもった「幼い大人たち」の現状分析が3章である。

3章 幼い大人
幼い大人といっても,次のようにいいとこ取りをしたいというだけだ。
誰も本当にまた子供や赤ん坊になりたいと思っているわけではない。むしろあらゆる年代の特権をすべて享受したい,青年時代の快適な軽薄さと成人してからの自立性を併せもちたい,と望んでいるのだ。(p94)
ディズニーのまやかしまたは,強力にアピールする点はつぎのような理由からだ。
ディズニーは,悪をより緩和するてめにこそ悪を示唆するのであり,地球を驚異的なおもちゃの次元に還元し,不安や危機の要素をすべて奪い去ってしまう。さまざまな人種,文明,信仰,部族はあらかじめその荒々しさを取り除かれ清められ,フォークロア的な側面に還元されてしまっているので,何の危険もなしに共存できるわけだ。葛藤の原因となるさまざまな差異などもはや重要でなく,……。テーマパークをつうじて意のままに縮められる外部世界は,いまや無害な不純物,単なる廃棄物にすぎない。なぜなら,外部世界の複製がここに存在し,そこでは死や,病や,邪悪さが廃絶されているからだ。(p106-107)
本来(理想)の大人とは,
それはある種の犠牲を受け入れ,途方もない主張をすて,「世界の秩序よりもむしろみずからの欲望に打ち勝つ」(デカルト)ほうがよいと知ることである。そして,障害は自由の否定ではなく,その条件そのものであると気づくことである。……。そしてさらにひとは自分を変えながら自己形成していかなければならず,常に自己に反して,かつて子供であった自己に反してみずからを構築のであり,その意味で,あらゆる教育はそれがどんなに寛容なものであっても,直接性と無知から抜け出すためにひとが自分に課す試練にほかならない,ということを理解することにほかならないのだ。要するに,大人になるというのは──いつか大人になれると仮定してだが──,限界を知り,われわれの馬鹿げた希望を捨て去り,自立的な人間になろうと務め,自己を放棄すると同時に自己を創出できるようになることなのである。(p100)
これは当然ながらイノセンスなどで議論されるところとも通じる。

そして,これに対して,
幼稚な個人主義とは,けっして何物も放棄しないというユートピアにほかならない。その合い言葉は唯一つ,永遠に今のままのあなたでいなさいというものである。いかなる保護者や束縛にも煩わされるな,自己同一性を裏付けてくれないような無駄な努力はいっさいするな,みずからの個別性だけ従え。改革や,進歩や,改良などには関わらずに,それがあなた自身のものであるというだけで完璧なあなたの主観性を洗練させ,育め。あなたの欲望は最高なのだから,いかなる好みにも抗うな。誰もがさまざまな義務を負っているが,あなただけは例外なのだ。(p111)
この考えをさらに厳しく問いつめると,
主体という概念は本質的な緊張,到達すべき理想というものを前提にしており,これから築くべき,個人をまるですでに獲得されたものであるかのように主張するとき欺瞞が始まるのだ(p112)
という点が押さえられていない。

こんな消費主義がどのような思考法に進んでいったかというと,
かくして,権利と福祉国家と消費主義の結びつきが,貪欲で,すぐ幸せになりたがる人間を生み出し,幸福がなかなか実現しなければ,自分は騙されたのだ,自分には裏切られた夢にたいする補償を求める権利がある,と確信するような人間を生み出すことにつながった。幼稚趣味と犠牲者根性の共通点はそこにある。両者がともに依拠しているのは,負債を否定するという考え方,義務の否定,同時代人にたいして無限の債権を有しているという確信である。一方は滑稽で,他方は厳格とはいうものの,犠牲者根性はいつでも幼稚趣味の過激な形式にすぎないのだから,どちらもあらゆる責任から忌避して世界から離れるやり方であり,生存競争から身を引くこと2つの方法にほかならない。
 こうしてひとはすべてを欲すると同時に,その反対のことも欲する。社会がわれわれを保護し,なにも禁じないこと,われわれを大事に庇護し,いかなる拘束も課さないこと。われわれを援助し,煩わせないこと。われわれを自由にしておき,しかし同時に無数の愛情関係の網目にわれわれを包み込むこと。要するに,社会はわれわれのためにあって,われわれは社会のためにないということ。「わたしは放っておいてほしい,だけど私の面倒を見てほしい」というわけである。(p113)
う〜む。フランスでもこんな事態になっているのですね。

結論のところにあるのが著者の基本的主張
個人を強化するというのは,個人を孤立させることではなく結びつけることであり,負債の感覚,つまり責任感をあらためて教えてやることであり,個人をより大きな全体の部分に変える多様な網目(ネットワーク)や忠誠のなかに組み込みなおすことであり,個人を解放してやることであって,(自己の中に限定させてしまうことではない)。 ……。必要なのは彼を支えてくれる勇気,彼を覚醒させる挑戦,彼を不安にするライバル,刺激的な敵意,そして有益な障害にほかならない。……。個人主義を癒すために必要なのは伝統への回帰や,寛容の増大ではなく,理想をより厳しく定義することであり,個人主義をそれを超える全体のなかに組み入れることなのだ。個人主義を否定するように見えて,実際は,それに障害をもたらすことによって豊かにしている諸力によって抑制されてはじめて,個人主義は生き延びることができるであろう。個人主義から拘束を取り去れば,それは干からびてしまう。(p306)
結局,欧米流の個人主義の話なんです。

子供の教育法のあり方,大人での自覚,さらに多様なネットワークのしがらみの責任,そして厳しい理想と勇気とさまざまな障害などと一言でいうと「大人になれ」ということです。こういうまとめ方をするとつまらないけど。

この本の良さは消費社会のさまざまな現象を記述し,位置づけていることです。「幼稚な個人主義」と「本来の大人」の対比, 「消費主義における個性/もう一つ」と「本来の個性」の対比など,意識的に対比して描かれているところが理解しやすい。消費社会として部分的に言われていることをきちんと論じていてあいまいな概念がわかりやすくなっています。ただし,読みやすいとはいえない。

消費社会の記述にはフランスよお前もか,と言いたくなるところがたくさんあります。

消費社会だけに興味がある場合,序章のつぎに2章,3章を読むほうがいいでしょう。そのあとゆっくり1章を読んでみてください。そうすると3章がさらにわかりやすくなります。

1999年8月22日記




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