Books 1998/7


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ジョナン・ヌーマン(北山節郎訳)『情報革命という神話』柏書房(1998) メディアよりことば
小島宏『授業崩壊−克服への学校経営的アプローチ』教育出版(1998) 学級崩壊もう一つの見方
リチャード・J・バーンスタイン(谷徹・谷優訳)『手すりなき思考−現代思想の倫理−政治的地平』産業図書(1997) ポストモダニズム(ローティ)批判
柄谷行人(編)『近代日本の批評III 明治・大正篇』講談社学芸文庫(1998) ポストモダン系ご本尊の会話
辻平治郎編『5因子性格検査の理論と実際−こころをはかる5つのものさし』北大路書房(1998) 性格5特性抽出の試み



ジョナン・ヌーマン(北山節郎訳)『情報革命という神話』柏書房(1998/6/30) \2,800
Neuman, J.(1996)Lights, camera, war: Is media technology driving international politics?
目次
 1 CNNは歴史をつくる?
 2 時間と空間を消滅させた電信
 3 すばらしき小戦争
 4 グーテンベルク革命の真実
 5 鏡としての「感情的な写真」
 6 世論に侵略された第一次世界大戦
 7 電話外交の危うさ
 8 映画という頼りない兵器
 9 ラジオ、戦争へ行く
10 冷戦を熱くしたテレビ
11 テレビはベトナム戦争の勝者か
12 生中継される革命
13 メディア神話を完成させた湾岸戦争
14 戦場を照らす衛星スポットライト
15 新たな神話としてのサイバースペース
16 情報化時代のリーダーシップ

この本でいいたいのは帯に書いてある「メディアは世界を変えない!」ということである。「印刷技術の発明からサイバースペースまで、550年間に起こった情報技術革命の歴史をたどり、メディアにまつわる幻想とヒステリーの双方を打ち砕く」ための本。実例が多いので役立つこともあろう。原タイトルの副題にあるように(国際)政治への影響ということであって、メディア一般論ではない。

テレビに関してはp186 「 1949年秋にはニューヨークの全所帯の22%が、ロサンゼルスでは15.5%が受信機を所有していた。」

1930年5月に書かれた手紙の紹介p187「 1925年に買ったラジオがもう古くなったのだが、新しいラジオを買うべきか、それとも近く発売されるテレビを待つべきか」

アメリカではテレビ放送が始まったのは1939-1940、スポンサー付き放送開始は1941年である(Britanica online)。それからすると随分気の早い話だ。

p302
新しいメディアがの発明が米国の大多数の国民に、少なくとも全所帯の約5割によって受け入れられるのは、価格が世帯の1週間の収入の2%程度に下がってからである。ラジオは、標準的な受信機の値段が、週間収入の1.8%になった1929年に、この閾を越えた。モノクロ・テレビ所有率が50%に達したのは、価格が週間収入の3.3%に下がった1955年であった。カラー・テレビは、価格が週間収入の1.9%になった1970年までに、全所帯の約半数に所有されるようになった。ヴィデオ・カセット・レコーダーがこの50%を突破したのは、価格が3.3%から1.1%に下がった1987年のことだった。コンピュータの価格が下がり、3人にひとりの米国人が既に自家用コンピュータをもつようになった現在…
しばらく前に10万円程度になると普及するといわれていた。ビデオデッキ、電子レンジなどがその代表的な製品である。もっとも50%の普及になる前の時期のことをいっている。平均年収 約620万円(家計調査1998年4月月収×12、貯蓄調査(1998)だと720万円)だと週間収入が12万円ほどだから、こりゃ永久に50%にならんぞい。年収の間違いではないのかな? 年収の2%なら12万円強だから普及が伸びる時期と一致する。つまり、年間収入の約2%(1.917%)=週間収入くらいになると50%の普及率になるてことじゃない。原文チェックが必要か。
(1998/7/2 追加:月給取りに対する週給取りの平均年収の2%という可能性もある。いずれにしても年収の2%であるはずだ。週給制のものは月給制や年棒制のものよりは低収入のはずだから普及率50%の納得はしやすいのだが、そういう統計を取っているのかな?)

インターネットでグローバル化した。マクルーハンの「地球村」が実現するという意見があります(p303)。この種の楽観論は土屋 恵一郎『正義論/自由論』岩波書店(岩波21世紀問題群ブックス)なんかが描いています。
ヌーマンはそのような事態はデータの洪水に直面させ(p306)

p295
…消費者たちが選択権を握る可能性に狂喜したとしても、それは一次的なものに過ぎないということだ。デジタル世界で失望させらるのは、情報が自由に駆け回り、無防備なサイバースペースは、仲介者を不在のままにしておかない、ということだ。…。混沌とした新しい情報時代に、秩序を与えるという彼らの伝統的な役割は、時間と空間が縮まる時に新たな評価を受ける。情報氾濫の時代においては、重要なものと些細なものを分ける方法を知っていたり、視聴者の欲求を予測できたりすることによって、ニュースを仕切る有能な人々が活躍するであろう。…

このあたりは、西垣 通『聖なるヴァーチャル・リアリティ』岩波書店(岩波21世紀問題群ブックス)がうまく描いている。フランスでの考えを中心にヌーマンのような綺麗なところだけでなくグロテスクな方向に進む可能性も示唆している。

一方で、
p295
しかし、政治権力を完全に改革する重荷を、この技術に負わせるのは危険である。マルクス主義または自由放任主義のどちらの見解を取るにせよ、権力は本質的な構造をもっている。あらゆる技術と同じく、サイパースペースは、従来からの方法にしがみついている者を動揺させるが、結局は、新しい方法を会得した政治システムに吸収されていくのである。

という指摘をしている。「メディアは世界を変えない」ということだ。結局は「言葉」が重要だというのがヌーマンの主張だ。「情報化社会」についての本、佐藤俊樹『ノイマンの夢・近代の欲望−情報化社会を解体する』講談社(選書メチエ)において、情報化社会は日本だけの言い方だ、「情報化」は決して社会を変えないといっているのと通じる。佐藤は会社システムは情報化では変わらないことを示そうとした。今まであるシステムを情報化するのであって、情報化システムが会社システムをかえない。

マクルーハンの「メディアはメッセージ」ということばに疑問を投げかけているのも呂社に通じる。もっとも、ヌーマンはメディアに対応したメッセージの投げかけ方があることを示している。
メディアがその存在を示す象徴的事件はあるが、メディアそのものが決定的な意味をもつものでないということであり、新たなメディアに対する幻想=神話に対して大きな疑問符を投げかける。ま、当たり前だけど、メディアの登場時には過剰な期待をもつことを戒める。歴史に学ぶとはそういうことだよ。でもそれは予想でしかないけど。

1998/7/1記


小島宏『授業崩壊−克服への学校経営的アプローチ』教育出版(1998/6/1) \1,800
目次
1 授業の危機管理
2 授業崩壊とその克服
 事例1 子どもの自主性の尊重
 事例2 いじめへの曖昧な対応
 事例3 先生、わたしにも?
 事例4 ベテラン教師の財産
 事例5 ベテラン教師の持ち味
 事例6 担任の暴言に反発
 事例7 緊急措置としてのTT
 事例8 プライドの高い教師の独善
 事例9 若い教師の自己改造
 事例10 楽しい学級のつまずき
 事例11 鈍い自己認識
 事例12 持てる力を発揮しない教師
 事例13 出勤できない教師
3 求められる教師像

小学校で学級崩壊が起こっているということが新聞などのメディアにとりあげれれていろいろと現状把握の本がでている。そこでは、子どもが変わったとか時代背景が述べられることが多い。たしかにいろんな要因で子どもが変わっているであろうから、そちらの側の要因追求は重要である。

この本では、どちらかというと子どもの側の問題よりも教師側の対応に焦点を絞っている。現実に起こっていることへの対応しなければならないのだから、このような思考は重要である。また、学級崩壊現象を解明するためには、どうしようもない教師やちょっとした間違いによる崩壊をいわゆる「学級崩壊」と分離することが重要である。

この本ではTT式(team teaching)を処理に多く利用している。たしかに、生徒も教師も手当をしないといけないのだから、チーム・ティーチングがその方式として良い場合多いだろう。

また、小学生だからなんらかのコントロールによりすぐに良い方向にもっていくことも可能な場合が多いであろう。
事例は簡潔にわかりやすくまとめられている。

事例1 子どもの自主性の尊重を例にすると、
(1)授業崩壊の概要
・授業の概要
・原因(「子どもの自主性の尊重」という名のもとに、実際には「教師の指導を手控えた」結果、勝手気ままが横行する無秩序な授業となった)
(2)対応が遅れた経過
(3)崩壊克服の構想(12ある)
(4)崩壊克服の基本案
原案から修正して
対象内容等担当者
A教諭に自主性の意味と育て方、自由と規律についての指導校長
子どもたちにきまりの必要性、楽しい学校生活、自由について指導校長、担任のTT
授業A教諭が専科授業や他の学級の授業を参観
担任・教頭のTT、担任・嘱託のTT
学年担任・専科協力・担任・教頭・嘱託
学級経営基礎的な生活習慣、教室掲示、学級便り等について指導教頭・嘱託
保護者へ常時、授業参観してもよい担任・校長
(5)崩壊克服の実践と成果
(6)実践を通しての教訓

こういうラインから攻めると子ども側には問題がないようにみえてしまうから恐ろしい。子どもを含むその環境の問題はもっと本気で考えなければならない。特に遊びや自分で構成する時間の問題はきっちりと子どもとその親や生活環境の問題としてとらえるべきであろう。

1998/7/4記


リチャード・J・バーンスタイン(谷徹・谷優訳)『手すりなき思考−現代思想の倫理−政治的地平』産業図書(1997.10) \4,700
Bernstein, Reichard.J.(1991) The new constellation: the ethical-political horizon of modernity/postmodenity. Polity Press.
著者はアメリカ哲学会東部会会長もつとめたこともある。この本では、副題に「倫理−政治的地平」とあるように実践として思想をとらえ、その視点からローティが強く批判されている。

目次
 1 哲学、歴史、批判
 2 理性への憤怒
 3 共約不可能性そして他者性との再会
 4 ハイデガーの沈黙? エートスと技術
 5 フーコー 哲学的エートスとしての批判
 6 真面目な遊戯 デリダの倫理−政治的地平
 7 モダニティ/ポストモダニティの寓話 ハーバーマスとデリダ
 8 一歩前進、二歩後退 ローティ−リベラルな民主主義と哲学−
 9 ローティのリベラル・ユートピア
10 宥和/断裂
11 プラグマティズム、多元論、傷の癒し


p45
「理性」や「合理性」という言葉が口にされるとき、支配、圧制、抑圧、家父長制、不毛、暴力、全体性、全体主義、恐怖さえもがイメージとして喚起されるのは、いったいなぜなのか。それほど遠くない昔には、「理性」は、自律、自由、正義、平等、幸福、平和を連想させるものであった…。

というようなポストモダニズムの行きすぎた「理性」批判に修正を加えるものである。

バーンスタインの基本的立場は《あらゆる基礎づけ主義の否定》にある。
p38 第1章
私はあらゆる種類の基礎づけ主義を否定することを明言しておこう。哲学そのものを永久的な土台の上に基礎づけることができるという考え方、こういう考え方ばかりでなく、歴史についても−どの形態の歴史であっても−それが基礎学となりうるという考え方、歴史が哲学の立てる問いに答えることができるという考え方、こういった考え方もまた、私は否定する。
この考えが虚無的方向に向かわないのが彼の良いところである。虚無的方向に向かわないところが彼の力説しているところ。

p24
哲学者たちは、不動で疑念の余地のない基礎を発見することができなければ、われわれは、知的および道徳的なカオスに、ラディカルな懐疑主義に、そして自己破壊的な相対主義に直面してしまうに違いない、という不安にとりつかれていた。デカルトが「私は突然に深い水の中に落ち、底に足をつけることもできず、泳いで水面を浮くこともできず、とても慌てている」
という「デカルト的不安」におちいらずにすませている。

それを、ハンナ・アーレントの「手すりなき思考」つまり、「柱も支柱も、基準も伝統も必要としないで、知らぬ大地を自由に松葉杖なしに動き回るような、新たな種類の思考」で乗り切ろうというわけだ。できるのかな?

この本で使われている言葉が難しい。やっぱり哲学だ。

例えば、constellationは星座や布置とかいった意味がある。それをバーンスタインは次のように使う。
p11
コンステレーションとは、「一群の変転する諸要素[であるが、ただし、それらは]統合されることなく並置されており、それらは共通分母とか、本質的核心とか、産出的な第1原理とかへの還元を拒むのである」。

宥和はバーンスタインの「根源語」になっている。宥和は『ヘーゲル事典』(弘文堂)では「和解」と訳されている。同書によると
 和解は、他者の罪を赦すことが同時に自己の罪が赦される所以として、ヘーゲルは初期以来一種の元徳として重視してきた。…。美しき魂は自己の権利を放棄することによって自己の側から敵対状態を放棄し、運命と和解する。
バーンスタインは宥和についてどういっているかというと。
p12
「宥和」の約束も要求も諦めることはできない(し諦めるべきでない)けれども、しかしながら、究極的な宥和−すべての差異や他者性や対立や矛盾が宥和されるようなアウフヘーブング−が存在するとか存在しうるということを責任をもって主張することができるとは、私には思えない。

宥和をアウフヘーベンの代わりになるものとして考えている。ただし、上でも言及しているように、ヘーゲルの「絶対知」を無限遠点として、到達不可能と考える健全さを評価したい。そういうものが到達可能だと考えるとどこか無理が生じる。到達可能だとするのは、「この世の楽園」思想と通じる。
p12
われわれは、無理強いされた宥和とラディカルな分散の「あいだ」で思考し行動することを学ばなければならない。…今日における理解の課題が要求しているのは、これらの引力と斥力の微妙で不安定なバランスを正統に取り扱うことである。


「地平」ということばに複数の意味をもたせている。
(1)ある人の思考の背景に潜んでいるがしかし明白に主題化されていないようなものに注意の焦点を当てるため
(2)いつも後退しているように思われるがしかしその人の思考の方向を定めているようなものに注意を喚起するため

諸地平という言い方で、還元不可能な複数性・多元性(プルーラリティ)を考えている。

「モダン/ポストモダン」という表現は、ハイデガーが気分と呼んだもの、つまり雰囲気を言い表すために用いるのが最善であるとしている。そして、この気分は、「人はいかに生きるべきか」に改めて直面するようにわれわれをし向ける。p15


第2章 理性への憤怒では、コンドルセ、ウェーバー、アドルノ、ハイデガーからの観点を論じている。コンドルセは啓蒙思想の「進歩」の考えを示し、あとの3人はそれを否定する。

コンドルセの啓蒙(科学)による進歩の楽観的な「幸福の約束」ではなく、ウェーバーらが語る退行の可能性の説得力。最後の段階「精神のない専門家。心のない享楽家。この虚無なる人間は、かつて達成されたことのない文明の段階にまで登りつめたと思いこむのだ」『プロテスタンティズムの倫理』

これらの「進歩」に否定的なものに対抗する考えをするが、ハーバーマスである。弁証法的合理性で語られる、「合理性をもともと対話的でコミュニケーション的なものとして理解する」。そして、探究者の共同体は、いかなる絶対的な始点も終着点ももたないで自己修正を続けるという基本的性質をもつとする。p67

しかし、対話に対しても不信感はある。
p72
デリダのような思想家たちが教えたのは、本来の対話、共同体、コミュニケーション的合理性といった理念は、潜在的に「息苦しい拘禁服」や「奴隷化する概念」になりうる。−そして過去においてじっさいいそうなった。−ということである。

このあたりの議論は加藤周一『加藤周一講演集2伝統と現代』(かもがわ出版,1996)のなかの「文体を考える」にもある。「対等の関係、フェアプレーで勝負しようという議論は、いくら精密に組み立てられた議論でも強い側に有利な議論にすぎません」(p112)などという興味深い指摘がある。

バーンスタインは討論の成り立つ前提について述べている。
p72
信念や価値や信条(コミットメント)、あるいは情動や情熱でもよいが、そういったものが共有されていないかぎり、対話もコミュニケーションもありえない。…。少なくとも、本当に聞こうとする積極的な気持ち、真に他なるもの、異なったもの、異他的なものを理解しようとする積極的な気持ち、みずからの大切な先入見を危険にさらす勇気、が必要である。

そして、宥和しようのないときもある。
p73
時としてコミュニケーションに必要なのは−つまり相互的な「われわれ」の樹立に必要なのは−断裂や分断なのである。すなわち、「他者」が敷いた共通の地盤を受け入れることの拒否である。口先だけのことならば、真の多元性(プルーラリティ)や差異や他者性を承認し尊敬することはきわめて容易であるが、しかし、実践的にこれを達成するのはおそらく最も困難ことである。

デリダ、フーコー、リオタールなどから得ること、
p74
われわれは対話的なコミュニケーション的合理性という脆いながらも根強い「理想」−尊ばれることよりも裏切られることの多い理想だが−にふたたび出会うことになる。

ウェーバー、アドルノ、ハイデガーを繰り返し学ばなければならないが、必然性とか運命とか不可避的な衰退といった「議論」の誘惑に負けてはならない。

第3章では、「共約不可能性」「他者性」「他性」「特異性(シンギュラリティ)」「差延」「多元性(プルーラリティ)」といった問題を取り上げている。

共約不可能性:2つの理論を完全に表現することができ、二者を逐一比較するのに使えるような共通の言語は存在しない。cf.共約可能性、両立可能性、比較可能性

この共約不可能性があってもまったくの相対主義になるとは考えない。
共約不可能性を認めたからと言って、ある特定の伝統の内部でなされる真理の主張の普遍性を放棄することにはならない…。伝統同士の共約不可能性が相対主義やパースペクティヴ主義を必然的に伴うわけでない。

帝国主義的植民地化と偽の異国趣味という二重の危機にもうち勝たなければならない。

無責任で表面的な寛容−そうした寛容においては、「《他者》」の共約不可能な他者性を理解しようとし、それと積極的に関わろうとする努力がなされない−と混同されてはならない。

p106
他性の不安定さとともに生きることを学ぶこと。特異性を全面的に承認するようラディカルな多元性を受容することを学ぶこと。それと出会うことを学ぶこと。−これは、つねに壊れやすく、危うい作業である。
このあたりが、手すりなき思考の真髄かな。

ローティの批判に8章、9章の2章を使っている。ローティはあちこちで批判のやり玉にあがっている。例えば、テリー・イーグルトン(森田典正訳)『ポストモダニズムの幻想』大月書店(1998)がある。


ローティに対して脚注でその思考法自体への批判をしている。
p400 第8章
ローティと新保守主義者の共通のパタン
(1)「イデオロギーの終焉」説を唱える。
(2)好戦的な反共産主義から、西欧資本主義社会の「既存の民主主義」のほとんど無条件の支持へ、そのまま横滑りしてしまう。
(3)リベラルな民主主義国が遂行する帝国主義的政策の意味を軽視する傾向がある。
(4)資本主義とリベラルな民主主義の関係を真面目に問題として取り上げない。
(5)いかなる普遍的な原理、基準、規準の援用にも疑問を抱く。
(6)道徳的および政治的判断を遂行する場合、「われわれ」が賞賛するものの具体例だけ焦点を当てれば十分だ、という考えを表明する。


ローティの批判のもっとも重要な部分は、基礎づけの問題にどう対応するかである。
自分が基礎的だと思っている信念、自分の行為を導くのに依拠している信念をどうやって保証するべきなのか。
ローティはこの問題を徹底的に考えた回答をしている。
p451
ローティの答えは、鋭いとともに不穏なものである。

われわれは、自分たちの「究極の語彙」に対して、循環論にならないような論証的あるいは理論的な裏付けを与えることはできない…。したがって、われわれは自民族中心主義的であることを避けられない。われわれは、無益な「なぜ」の問いに答えようとする努力をやめるべきである。われわれにできることは、ひとつの語彙を他の語彙と戦わせること、自分たちが好む語彙を使って多くの物事を書き換えることによってその語彙をできるだけ魅力的に見せようと努力すること、逆に他の語彙を悪く見せることによってそうすること、こういったことだけである。

ローティからの挑戦のあれかこれか:強い合理的な正統化か、それとも、根拠のないリベラルな希望か。

それより前に論じているが、バーンスタインは議論することの重要性を説いている。そこにこれに対する回答があると見るべきだろう。
p440
もし競合しあう議論のあいだで決定を下すためのアルゴリズムが存在していたら、そもそも議論の必要などないだろう!どちらがよい論証なのかは、コンピュータで「決定」できるだろう。
p441
合理的な説得というものは、それ自体が、われわれはただ自分の意見に固執して私の究極の語彙は批判に対する免疫をもっていると宣言する代わりに、<より良いにせよ悪いにせよ論証=議論を与えることができるし、しかも、より良い論証=議論を区別することもできる>という信念を要求するのである。

10章がもとの本の最終章となっている。ここでは、ヘーゲルの「人間の生活から統一化の力が消えたときに哲学の必要が生じる」という言葉を引き、ヘーゲルの再解釈や強化によって「宥和と断裂」の問題を深めることができることを示している。その議論のもとになるのがヘーゲルの主体性の考えである。

ヘーゲルの主体性
項目主たる特徴極端化したときのマイナス面
個人主義近代世界においては、単数性(=個人)は際限もなく特殊化されるのだが、そうした単数性は、僭越な自己主張をしてのける。極端化されると、すべての共同体的な(精神的な)絆が断裂させられてしまうような無秩序な原子論によって、われわれを脅かす。この点において「共同体論的な」批判者によって繰り返し申し立てられてきた異議をヘーゲルは予測していたし、言明してきた。
批判の自由近代世界の原理は、どんな人にとっても、自分が認識することのできる事柄は、認識されるべき事柄なのだという要求をする。それが、自分自身のほうに向きを変えて批判のための土台を掘り崩すような具合に全体化されると、それ自体が、自己破壊的になる。
行為の自律自分が行うことに対して自分が責任を負うというのは、近代の特徴である。抽象的な自律−絶対的な自由−への要求が「世界の王座に登り詰め、それに抵抗できる力が存在しなくなる」ところでは、「破壊の猛威」や恐怖に変わってしまう。
観念哲学哲学が自己意識的な(あるいは自己を知る)《観念》を把握するということは近代の業績。「《思考》と《存在》の同一性についての表面的な(訳のわからない)話」に堕落することがありうる。


この極端化したマイナス面がポストモダニズムにでている。ヘーゲルの読み直しなどにバーンスタイの回答になっている。

上の4つの側面以外にも、グローバリズムと共同体主義の対立を次のような枠組みでもとらえることができる。
p13
ヘーゲルは、近代的な道徳性(モラリテート)(これは個人の自律を強調する)と、共同体的な「倫理的実質」に力点をおいた人倫(ジッヒリッヒカイト)の、両者の「真理」を統合し、宥和させようと試みた。


矛盾があることにこそ価値を見いだし、一方では矛盾の存在をはっきり認めあわせ飲む度量と、もう一方でのたうち回る真摯さが求められている。このあたりがヘーゲルを読み直すことになっている

ポストモダニズムに対して誠実に対応しつつ、流されないそんなおじさんということか。
この本はヘーゲルが中心にあるが、最後の講演ではデューイがベースにあることを示している。プラグマティズムを5つにまとめている。その5つはそのままバーンスタインの「手すりなき思考」に結びついている。
(1)反基礎づけ主義
(2)可謬論
(3)批判的共同体の育成
(4)ラディカルな偶然性や偶発性を認識し、それに敏感に対応する。
(5)多元性(複数性)
断片化をもたらす多元論、だらしない多元論、好戦的な多元論、防御的な多元論ではなく、プラグマティズムは身を投じた可謬論的多元論だ。

p46のperfectibility を完全化可能性と訳しているが、『西洋思想大事典』(平凡社)では(人間の)「完成可能性」という訳語を与えている。このほうが自然であろう。

なお、ポストモダニズム批判としては、1995年ソーカル事件というのが起こっている。 その概要は『月刊百科』1998年2月号(14-15)、3月号(42-43)に紹介されている。インターネット上ではここ(ある物理学者とポストモダン知識人達の対決)が詳しい。

『知的ペテン』の批評とそれへの反論(堀茂樹(1998)きみはソーカル事件を知っているか?(その2)月刊百科 1998年3月号,no.425,42-43)
『知的ペテン』でのポストモダニスト批評本人や信奉者の反撃
かつてJ・ラカンは自然科学の概念をいささかの説明もなく人文科学の領域に密輸した。

ボードリヤールは最近でも、意味のないフレーズを意味ありげに弄んで「言葉遊びにふけっている」。

都市学者P・ヴィリリオも、難解な数物理学用語をでたらめに使い、「うわべだけの博識を誇っている」。

J・クリステヴァは近年はともかく1970年代前半まで、一知半解の科学概念をまったく不適切に援用していた。

そのたぐいのいい加減さと知ったかぶりは、あのジル・ドゥールズとフェリックス・ガタリの場合も全く同断である。
やり玉にあげられた思想家たちは科学概念をメタファーで使っているのだから、それを額面通り受け取って批判するのは見当違いだ。

言説の枝葉末節を批判しても、思想の批判にならない。

哲学に対して「科学的に正しい」ことを求めるのは、思想の冒険を封殺する検閲行為だ。

フランス人思想家ばかりを標的にする『知的ペテン』は、米国の一部知識人の「保護主義」を反映するアンチ・フランスの書だ。
1998/7/6記

1998/7/8追記
日本語でのソーカル事件の解説として、
金森修「サイエンス・ウォーズ」,『現代思想』,1998年7月号,Vol. 26-8,p16-42
がある。この号はソーカル事件前夜であり、次号にソーカル事件や『知的ペテン(詐欺)』が扱われるようである。この号の説明からするとソーカル事件は文脈をみながら捉える必要があるようだ。大学における理科系学者の人文学者への批判という面もある。次号に期待する。



柄谷行人(編)『近代日本の批評III 明治・大正篇』講談社学芸文庫(1998.1.10) \1,300
初出は 1991年の雑誌「批評空間」1,2,3号。その後福武書店1992年刊。昭和編上・下の続編である。本の目次には、「《討議》「近代日本の批評」再考」が欠けている。どういう内容かは見出しを見たほうがわかりやすいので小見出しとその頁を補った。

目次
煩悶、高揚、そして悲哀 近代日本の「批評」の発見 野口武彦
 言文一致をめぐって 11
 文学者はいかにしてキリスト教者となりしか 16
 思想史的事件としての日清戦争 23
 「自然主義」についての批評 27
 
《討議》明治批評の諸問題 1868-1919 浅田彰・柄谷行人・野口武彦・三浦雅士・蓮実重彦
 世界史的転換と国家意識 36
 政治小説的なものと『小説神髄』的なもの 51
 キリスト教と絶対的イデー 62
 言文一致と翻訳の問題 81
 斎藤緑雨の職人芸 91
 制度と内面 98
 日清戦争と中国・朝鮮の消去 107
 自然主義と「悲哀」、そしてフォルム 112
 ニーチェと樗牛 123
 石川啄木と「国家」・「強権」 126

「大正的」言説と批評 蓮実重彦
 1 同一 146
 2 代行 152
 3 主体 160
 4 差異 165
 5 分析 171

《討議》大正批評の諸問題 1910-1923 浅田彰・柄谷行人・野口武彦・三浦雅士・蓮実重彦
 分析=記述の不在、標語の花盛り 178
 差異の導入と抵抗の姿勢 182
 中国の抹消・エクリチュールの抹消 187
 風圧の低い時代と天皇 192
 国家資本と民間資本の対抗関係 196
 自然主義的文芸批評と白鳥、和郎 204
 大杉栄・岩野泡鳴と「生命」 209
 白樺派と私小説 213
 有島武郎、還元できない差異 217
 文化的イメージとしてのヨーロッパ 222
 大正の言説=官学的言説 230
 永井荷風と森鴎外 234
 読者社会の形成と私小説 243
 人格主義・内面の宗教・無の論理 248
 柳田国男と折口信夫 253
 短歌とエクリチュール 260
 多様性と均質性=同一性 266

《討議》「近代日本の批評」再考 浅田彰・柄谷行人・野口武彦・三浦雅士・蓮実重彦
 反復構造と批評の正当性 274
 父権的なるものの残照から神仏習合へ 280
 ポスト内村イズムとキリスト教の仏教化 288
 トルストイ信仰と大正的「ロシア」 292
 父権制と母系制の二重構造 301
 樋口一葉のエクリチュール 315
 フェミニスト作家漱石 322
 俳句と短歌 328
 福本和夫=無教会派マルクス主義者 334
 小林秀雄、「母」という表象 339
 「近代文学」派=団塊の批評家 348
 第三項の崩壊と批評の頽廃 352

【参考資料】
明治・大正批評史略年表 1868-1926
人名・書名索引


 時代の区分は日本の元号にきちんと対応しているわけではない。大正期をだいたいい日露戦争後から関東大震災までと考えている(柄谷行人,p187、蓮實 p178)。ということは1905年(明治38年)から1923年(大正12年)くらいということです。

 批評ということばも、井上哲次郎『哲学字彙』(明治14年)の改訂版(明治17年)での訳語が影響を与えた(p8)。明治18年にでた『当世書生気質』に「批評家」に「あなさがし」とルビを振っているとの指摘もある。昔からそういう側面があったわけだ。

 文学者の多くがキリスト教者であったし、それが近代化でもあったとか、自然主義は自然主義ではないとか、日清戦争に勝ったことで浮かれてしまったとかいろいろ指摘として面白い点がある。p71「日本の建国神話が国民的に受け入れられていったのは、日清戦争のあたりです」(柄谷行人)。

 p97 「江戸文化は、大坂的なモダニティを否定したから、一種ポストモダンにみえる。現在もそうです。」(柄谷行人) というのはなんかな。京都もポストモダンではないのかな。大坂がモダニティというのは金銭で一本筋が通っているということだろうか。指摘としては面白いがなんなんだ。p105「封建制の良さというのは、多元的システムがあるということ」(柄谷行人)。民族とか宗教での多元性がよく言われているけど、それ以外の多元性つまりあまり意味をもたない区切りも区切れば時間とともに意味をもってしまう多元性注目しないといけない。もっともこれはイーグルトンの言っている「共同体主義」だな。

p106「武士は直接の主君に忠誠なのであって、それより上とは関係ない。…。明治政府はこれを一掃しなければならなかった。キリスト教にいった連中も、これまでの主君のかわりに、「主」をみつけた。それに、subjectすることで、subject(主体)になった。この主体は、国家や天皇に平気で対抗できるものです。しかし、それはブルジョワ的な主体と言うよりも、武士的主体ですね。」(柄谷行人)。この武士的主体とは東洋や森岡清美のいう「自発的(主体的)役割人間」と関係している。
東洋『日本人のしつけと教育(シリーズ人間の発達12)』東京大学出版会(1994)
森岡清美『決死の世代と遺書』新地書房 1991→現在、吉川弘文館(1993)

大正期は「分析=記述」が不在で批評らしい批評はなかったというのが蓮實の総括。実態と乖離した標語ばかりとか。

「生命」というものがもてはやされた。このあたりは次の本に詳しい。
鈴木貞美『「生命」で読む日本近代−大正生命主義の誕生と展開』NHKブックス(1996)
だけど、p211 「大体「生命」という考えは、膨張主義とつながりやすい」(柄谷行人)という指摘なんか上の本ではなかったようだ。

p271
柄谷 この時期は、みな個性ということを言い出した時期でしょう。そのために、逆に、「個人」はいないですね。
三浦 結果的には「個人」はいなかったですね。
柄谷 しかし「多様」ではある(笑)。蓮實さんが最初に言ったことに戻って言えば、多様であるが同一的であり、逆に、同一的だけど多様で個性的なんですよ。明治にはキリスト教があり、昭和にはマルクス主義がある。あるいは戦争がある。この時期は、そういう外部性がないから、一見して非常に多様ですよ。それと均一性、同質性は矛盾しない。しかし、誰一人インパクトを与えないな。柳田と折口は別ですが。
こういう批評は今でもあてはまるようだ。蓮實氏の次の発言にもつながる。

p278(強調堀)
…1980年代の日本が、いわばものを考えることを忘れちゃった時代だったという認識が日々強まっていったからです。ある未知の記号にぶつかった場合に、それをまず未知のものとして捉える感性を持つこと、同時に未知と思われたものがなんらかの反復であるかもしれぬという意識を見失わぬこと。その感性と意識とが1980年代の後半の日本では、驚くべき形で衰えた。

このあと続けて、「ぼくは一般的にポストモダン派というふうにとられているらしいけれども(笑)、ぼくがやろうとそていることは徹底して近代です。」という発言がある。おっとそうだったの。

p301から父権制と母系制の二重構造が日本にあるという議論がある。
p303「父権的な社会では、血の同一性が大切になる。だから個人主義的になる。中国でもそうです。意外に個人主義的なんです。近代的な個人とは別の意味ですが。しかし、日本人にとっては、家というのは血によるものではない。個人は重要でない。だから「野村証券は永遠です」「巨人軍は永遠です」という発想になる。(柄谷)

日本の古代はどうさかのぼっても、結局父権制であり、それは母系的なものを利用した支配になっている。母権制と母系制は違っている。
日本の思想的土壌においては、あくまで父権的でありながら、母系的なものが優位になったということができる…。…。ポストモダンとプレモダンが二重性としてある。

…「日本的なもの」というののは、この母系制という問題、あるいはフェミニティの優位という問題に行きつくのではないか、と思っているのです。

p314
それは、日本的ポストモダニズムの問題であって、十分に近代的でもないのに、あるいはまさにそうであるがゆえに、ポストモダニズムの先端に立ってしまうということですね。

p315
二重のエクリチュールは面白いね。「近代女性」は漢文で書く。あるいは横文字で書く。つまり、逆に父権的な構えに入る。ところが、女言葉(女文字)で考えると、男なんてだらしない息子みたいなもので、負けたふりして簡単に操作できる。

ほとんどの引用部分が柄谷行人になっている。面白い発言が柄谷氏に集中している。

この本で気にかかるのが、大正的だとか、昭和的とかいろいろ決めつけが多い。また、座談の時の言及先がわからないものが多い。

明治期の「キリスト教」、昭和期の「マルクス主義」の影響というのは誰がいいだしたのかな。丸山真男『日本の思想』岩波新書(1961)でも引用なしでいっている。常識だったのだろうか。(昭和編下を読んでいないのを露呈したかな?)

そういえば、昭和編[上]において、福本和夫がフランクフルトに行っていたということを行っているが、それがフランクフルト研究所であるとは言っていない。わかっている人にはわかるのだろうけど、座談の手入れのときにそれぐらい足して欲しい。そうすれば、なぜ福本がマルクス主義でも飛び抜けた存在になったのかがわかりやすい。

全体としては気持ちよくお話しているのでしょうが、「あほ・ばか」発言が多すぎるのではないかな。

1998/7/8記


辻平治郎編『5因子性格検査の理論と実際−こころをはかる5つのものさし』北大路書房(1998/3/31) \3500


目次
第1部 5因子モデルの起源
 1−1 特性論と5因子モデルへの収斂   山田尚子
 1−2 語彙アプローチと質問紙アプローチ 和田さゆり
第2部 日本における5因子の測定
 2−1 特性語(adjective)の5因子尺度   和田さゆり
 2−2 日本語NEO−PI−R人格検査とNEO−FFI短縮版
                      下仲順子ほか
 2−3 辻らの5因子モデルとFFPQ   辻平治郎
第3部 5因子モデルの理論
 3−1 性格特性論の生物学的基礎     藤島寛
 3−2 5因子モデルとその他の特性因子論 辻平治郎
 3−3 特性論アプローチとその他の理論的アプローチ  〃
 3−4 5因子モデルの普遍性−5因子モデルの比較文化的検討
                      藤島寛
第4部 FFPQの信頼性と妥当性
 4−1 FFPQの因子的妥当性と信頼性  辻斉
 4−2 FFPQとYG性格検査との関係  夏野良司
 4−3 FFPQとエゴグラムとの関係   森田義宏
 4−4 FFPQと健康度(GHQ)との関係 夏野良司
 4−5 FFPQとSDS職業適正自己診断テストとの関係
                      向山泰代
 4−6 FFPQと攻撃性         秦一士
 4−7 FFPQと芸術との関係      藤島寛
 4−8 神経症患者のパーソナリティ特性  川西文子
第5部 特性のタキソノミーとしてのFFPQ
 5−1 自己意識と他者意識の特性と5因子モデルへの位置づけ
                      辻平治郎
 5−2 失敗行動質問紙(CFQ)との関係 山田尚子
第6部 批判と展望
 6−1 FFMの神経心理学的検討     坂野登
 6−2 結論と今後の展望         辻平治郎

この本は辻平治郎氏らのグループが作ったFFPQという性格テストの解説書+αである。FFPQというのは、最近の性格理論で支配的ある5特性が性格記述の中心であるという考えに則って作ったものである。全般的(6−1は例外的かな)に理論的な面はなまくらである。柏木(1997)のほうがいい。最近の性格の考え方やBig Five(5因子説)を少し詳しく知りたいという向きにはいいでしょう。また、FFPQの下位因子は立証されたものとは言えない。性格検査として真面目に作ったほうでしょうが、問題がかなりある。

「第1部 5因子モデルの起源」においてBig Five の起源と考え方を示している。

第2部において、この方面の代表的研究者の3人がそれぞれ開発に関わった尺度を説明している。和田さゆりは特性語の5因子尺度の日本の研究を自分の研究を中心に概観している。下仲順子らは、Costa & McCrae (NEO-PI-R)に基づいて自ら開発した日本版NEO-PI-RとNEO-FFI 短縮版の説明をしている。そして、辻がFFPQ開発の経緯を説明している。この章では論文になったことのある研究をレビューできるし、5因子の用語や5因子それぞれの説明の立場の違いがわかる。注意しないといけないのは、ここで紹介されている以外にbig five 系の研究は日本心理学会大会の発表などにたくさんあることである。

5因子のCosta & McCraeの因子でさえもその5因子をどう訳すかの問題がある。そして命名によってイメージも変わる。FFPQ以外はCosta & McCraeをベースにしている。和田ではアルファベットでいうことを基本にしているが、この本では日本版NEO-PI-Rと同じ用語を使っている。これまでの論文でもいくつか違う呼び方をしている。次に参考のために5因子名を挙げておく。

和田の5因子
N(情緒不安定性)、E(外向性)、O(開放性)、A(調和性)、C(誠実性)
日本版NEO-PI-R
神経症傾向、外向性、開放性、調和性、誠実性
FFPQ
内向性−外向性、分離性−愛着性、自然性−統制性、非情動性−情動性、現実性−遊戯性

柏木(1997;p163-164)では、
情緒不安定性(N)、外向性(E)、経験への開放(O)、協調性(A)、勤勉性(C)と命名している。

第3部 5因子モデルの理論ではあまり生産的な話はない。過去の性格理論を展望するのに使えるかもしれない。あとでもあるが、辻氏の自己とか自己意識との関係はまったく性格との関係がみえない。余分なものであろう。3−4の比較文化的検討をする前に、日本の5因子間の関係をやらなくては意味がないだろう(2−2でお手軽少数サンプルの結果が紹介されている)。それから、文化の違いというなら、関西と関東で違うかとかいう問題はないのかね。

第4部の因子的妥当性と信頼性の章を読んでまったく驚きだ。この結果を素直に読めばFFPQの因子的妥当性はない。つまり、表4−4〜表4−8にある下位因子はその下位因子としてまとまっていない。しかも、今の因子分析のレベルなら共分散構造分析を行うべきであろう。そうでなくても斜交解を示すべきであろう。これらの表からすると、下位因子は妥当とはいえないから、その下位因子をまとめた上位因子が妥当であるかどうか疑問である。なぜ、調査結果から修正をしないのか疑問である。そのような検査から世界に発言するのは問題である。

PFスタディとの関係で(p207-209)、遊戯性において、無責型が他責、自責型よりも低い(つまり現実性の方向)という傾向があるというのがちょっとおもしろい。

第6部の1の覚醒水準とパーソナリティの関係の検討は興味深い。特に、衝動性をどこに位置づけるかは性格理論でのひとつの問題史になる。1997年になくなった Hans Eysenck(1916-1997)の性格検査ではその位置づけが最初の外向性から主として精神病質に変化している。NEO-PI-Rでは衝動性は神経症傾向に入り、外向性のなかに、活動性や刺激希求性(刺激探求)が入っている。このように個々に見ていくとそれぞれの下位因子がそれでいいのかという問題が噴出してくる。この点についてこの本は真面目に取り上げないばかりか、因子分析の結果への対応も不真面目である。

柏木繁男『性格の評価と表現−特性5因子論からのアプローチ』有斐閣(1997)(p153)
で少し紹介されているサーカンプレックス(circumplex)モデル(テスト項目間の関連が循環的構造を作る)が、big five のもっている5因子にはなるけど、分析によって因子(名)が異なってくるという問題を(理論的に)解消してくれる。論文としてはJohnson & Ostendorf(1993)がある。この論文では絶対的な軸があるとは考えない。仮に5つの軸を置くと、いろいろなクラスターを2つの因子(同一因子の場合もある)組み合わせであると説明する。


同書で検討しているファセット理論も面白い。しかし、語彙論的にみるとサーカンプレックス・モデルをベースにして、領域や対象によって中心的語彙が変わってきたり、ある種の語彙が豊富化すると考えられる。SD法などでは対象によって語間の関係が変わることからしても、あまり固定的な考え方は避けるべきだが、5因子の各軸を絶対視することをまず排除すべきだろう。

Johnson,J.A., & Ostendorf,F. 1993 Clarification of the five-factor model
with the abridged big five dimensional circumplex. Journal of Personality and Social Psychology, 563-576.

インターネットでのbig five の説明には、The Big Five Taxonomy Based on a Qualifying Exam Answer by Frank Fujita またど5因子の名前とその対応についてはPersonality Measures and the Big 5がある。
性格理論一般については、The Personality Project がある。

1998/7/26記