「日本独文学会中国四国支部ドイツ文学論集」第33号 (2000年10月発行)掲載

謎王女物語の系譜

─ グリムとトゥーランドット ─


   1. はじめに

謎王女物語とは、求婚者に対して謎を課題として課す王女の物語である。この物語には二つのタイプがあり、一つは、求婚者に王女が謎を出し、これを解いた者と結婚するというタイプ(以下、謎かけ姫物語と呼ぶ)、もう一つは、求婚者に謎を出させ、王女がその謎を解けなかったら結婚するというタイプ(以下、謎解き姫物語と呼ぶ)である。前者では、求婚者が王女の謎を解けなかったら命を失い、後者では、王女が謎を解いたら、謎を出した求婚者は命を失うという、どちらも過酷な設定が特徴的である。

後者の謎解き姫物語は、アールネ/トンプソンの話型では、AT851「謎が解けない王女」と分類され、ヨーロッパを中心として、類話の数が圧倒的に多い1)。『グリム童話集』の中の「なぞなぞ」(Das Rätsel KHM 22)を筆頭として、エスピノーサの『スペイン民話集』やアファナーシエフの『ロシア民話集』などにも、類話がある。前者の謎かけ姫物語は、プッチーニのオペラ「トゥーランドット」でよく知られている。原作はイタリアのコメディア・デ・ラルテの劇作家ゴッツィの劇であるが、物語の起源はかなり古く、中近東に由来すると考えられる。民話としての類話の数はあまり多くなく、話型分類でも、独立した番号ではなく、AT851A「トゥーランドット」として短い説明が与えられているに過ぎない。この小論では、謎かけ姫物語と謎解き姫物語との関係を、歴史的な変遷をふまえ、モティーフの比較考察などを通して分析したいと思う。

   2.  ヨーロッパにおける謎解き姫物語(AT851)

数多くの類話が存在する謎解き姫物語のうち、『グリム童話集』では「なぞなぞ」が、1819年の第2版から採録されている。あらすじは、次の通りである。

《自分に解けない謎を出した者と結婚するが、その謎を解いたら、謎を出した者は首をはねられるというお触れを出した高慢な王女がいた。九人が命を失ったあと、ある商人の息子が挑戦の旅に出た。悲しんだ両親は「異国の地で殺されるより、ここで死んで埋葬した方がいい」と考え、毒を入れたワインを別れぎわに息子に差し出した。ワインは馬の耳にかかり、馬が倒れた。馬の肉を食べたカラスも死んだ。同行した従者が死んだカラスを宿屋に持参し、カラスの肉入りパンを作らせた。翌朝、森で十二人の山賊に襲われたが、従者が差し出したパンを食べた山賊たちは全員死んだ。町へ着いた商人の息子は、このような体験に基づく謎を王女に出した「一つの打撃で一つ、二つの打撃で三つ、三つの打撃で十二とは何か」。 王女は解くことができず、晩に男の寝室へ行き、答えを聞き出した。翌朝、王女は謎を解くが、男に奪われた服で策を弄したこともばれ、二人は結婚した。》2)

この種の謎解き姫物語は、次のようにまとめられる。まず男の体験から始まり、この体験に基づく謎を男は王女に出す。王女は策を用いて謎の答えを聞き出すが、男に奪われた衣類が証拠となって不正がばれ、結婚する。これらの要素のうち、男の体験とそれに基づく謎が、類話により、多種多様である。ゴルドバーグは、この点に着目して、類話をゲルマン型と南欧型に分類している3)。 ゲルマン型は、グリムのように、毒の連鎖が謎の基本となり、毒入りワインなどの飲物から始まり、馬、カラス、盗賊という順に死んでいく。有能な従者が登場するのもゲルマン型の重要な要素である。これに対し南欧型では、毒の発端はパンやケーキであることが多く、最初に死ぬ動物は、ロバや犬であるという。また、南欧型では、その後の展開において、盗賊や従者が登場しないのが一般的である。エスピノーサの『スペイン民話集』の「謎王女」では、羊飼いが母親から毒入りパンをもらい旅に出る。パンを食べて死ぬのは、パンダという名のロバである。このロバの肉を食べたカラスも死ぬが、毒の連鎖はここで終わっている。「私の母はパンダを殺し、パンダは三羽を殺した」という謎が作られる。南欧型では、他に別のエピソードが加わることが多い。このスペインの民話でも、男はロバが死ぬ前に山で狩りをするが、野兎を狙って撃った鉄砲が、狙わなかった別の兎に当たり死んでしまう。さらに、この野兎を解体し、腹の中から子を取り出して、火であぶって食べる。こうした体験から、「見た物を撃って、見ない物を殺した」と「生まれても来ず、育てもしなかった子を食べた」という謎も作られる4)。 毒の連鎖による首尾一貫した出来事の連続を優先するゲルマン型と、毒にとらわれない多様なエピソードの連続を好む南欧型との違いが見て取れる。

   3.  ペルシアにおける謎かけ姫物語 (AT851A)

数多くの類話が知られている「謎が解けない王女」に対し、AT851Aの謎かけ姫物語の方は、広範囲に類話が分布しているわけではない。しかしペルシアに端を発する謎かけ姫物語の方が、歴史的には圧倒的に古く、長い歴史的背景を持っている。次に、マイアーの研究5)に基づいて、ペルシアにおける謎かけ姫物語の変遷の過程について検討したいと思う。

文献の上で初めて後世に伝えたのが、ニザーミーのロマンス叙事詩『ハフト・パイカル(七人像)』である。1197年に完成されたこの作品は、全体が枠物語として構成され、七人の王妃を迎えた皇帝バフラームが、七日間にわたって、各王妃に出身地にまつわる話を語らせるという構成になっている。そのうち、四人目の王妃の語る物語が謎かけ姫物語で、次のような内容である。

《ロシア王女は容易に入れない山の砦に住んでいた。王女と結婚するためには、名声の高い美男子であり、砦に到る道の魔力を取り除き、砦の門を探し出し、父の宮殿で謎解きに成功するという、四つの条件が必要であった。これまで多くの者が失敗して命を失った。ある美青年が賢者の教えを請い魔力を解くのに成功し、太鼓の音で砦の門を発見した。》
あとは謎を解くだけとなったが、その謎のやりとりは、問答ではなく、象徴的な方法でなされる。二人の行為とその意味(括弧内に示す)は、《王女は二つ真珠を二つ渡す(あなたの命はあと二日)。男はその二つに別の三つを加えて返す(たとえ五日でもすぐ過ぎる)。王女は砂糖を加えて一緒に磨りつぶす(砂糖と真珠は分離できるか)。男は乳をかけて返す(乳をかければ分離できる)。王女は指輪を送る(結婚に同意する)》 という風に続いていく6)

この作品は韻文で書かれているが、その後、ムハンマド・アウフィーにより最初の散文による謎かけ姫物語が書かれた。彼は1228年、約二千以上の物語・逸話から成る膨大な『物語集』(ジャワミール・ヒカーヤート)を書き、デリーのスルタンの宰相に捧げたが7)、その中に、次のようなペルシアの若者とギリシア王女の物語があるという。

《ペルシアのある貧困な一家は、息子が父を売って馬を買い、母を売って鎧を買い、ギリシア王女の謎解きに出かけた。王宮で、ある手紙を託された。途中で水を飲んだ際、濡れた手紙を開封すると、これを持参した者を即刻殺せと書いてあることがわかり、命拾いした。王宮に引き返し、王女の九つの謎にすべて答えた。最後に逆に王女に謎を出した「父が馬、母が鎧、水で濡れた葉により破滅から救われたのは、どんな人間か」。翌朝まで猶予をもらった王女は、召使いに変装して男の部屋に行き、答えを聞き出し、装身具を残して逃げ去った。翌朝、王女は謎に答えるが、策を用いたことを恥じ入り、結婚した。男は皇帝になり、ペルシア王に売った両親を買い戻した。》 8)

この物語で注目されるのは、王女の謎に男が正しく答えたあと、反対に男の側から王女に謎を出す場面があることである。しかも、その謎の内容は、男の体験に基づくものとなっている。この逆の謎かけは、後年の「トゥーランドット」に至るまで保持される重要な要素となる。このアウフィーの物語において、謎かけ姫物語の大枠が固まってきたと考えられる。

その次の段階の物語として、アブドル・ガフール・ラーリー(1506年没)の15世紀の写本が知られている。これはオックスフォードのボドリアン図書館が所蔵する写本(Ouseley Adds.69)で、物語の構造自体は非常に簡潔なものであるが、謎を出す王女がシナの皇帝の娘となっている。この点では、後年の謎かけ姫物語の舞台設定の先駆ともいえる。ただ、この時期のペルシアでは、謎に関する文献が数多く残されており、この写本では、謎の場面が16頁にも及ぶ膨大なものであるという。また、謎解きの場面も、広間に群衆が大勢駆けつけて、太鼓の音で開始されるなど、かなりスペクタクルな要素が強まっている9)

さらに次の段階の物語も、作者の名前は不詳であるが、同じボドリアン図書館の写本(Ouseley 58)で残されている。ほぼ同じ内容の写本が、ロンドン(India Office Library: Nr.2541)にもあり、1645年というデータが記載されていることから、このあとに続く『千一日物語』の前段階のものと推定される。内容は、以下の通り。

《国を追われたトゥーラン王の一族は苦難の旅を続けた。旅先で国王の鷹を見つけて届けたことにより、王子は大喜びした国王に、自分の両親を買い取ってもらい、代わりに馬と武具をもらった。旅を続けた王子は、シナの国の使者から手紙を届けるよう頼まれた。渇きに苦しんだ砂漠で、深い井戸を見つけ、水を飲んだ。その場で手紙を読んでみると、これを持参した者を即刻殺せ、と書いてあることがわかり、破り捨てた。 シナの国で王子は謎かけ姫の話を聞き、謎解きに挑戦した。四日間に及ぶ謎解きで、すべて正答した王子は逆に王女に次のような謎を出した「王宮も玉座も失った王子が、父母により身支度を整え、放浪中に第一の死に遭遇した。脇にかかえの第二の死からも何とか逃れると、一番過酷な第三の死と遭遇した。必死に第三の死と戦い、その死の支配者となった王子とは」。一晩の猶予をもらった王女は、侍女を王子のもとへ遣わした。侍女は王子の命が狙われていると偽って、王子を動揺させ、謎の答えを引き出した「謎は私のこと。王位を追われ、父母を売って馬と武具を整えた。途中で手紙を届けるよう頼まれた。砂漠で渇きに襲われ、死ぬ思いをした(第一の死)。やっと水にありつき、手紙を開封すると、これを持ってきた者を殺せと書いてあった(第二の死)。そして、失敗すれば殺される王女の謎かけ(第三の死)」。翌日、王宮に来るのが遅れた理由を問われた王子は、前の晩の策略をほのめかす謎を出し、王女は負けを認め、王子と結婚した。》10)

アウフィーの物語とこの作者不詳の物語とは、重要な点が共通している。両親を売り馬や武具を調達すること、「配達した者を殺せ」と書かれた手紙、いわゆるウリアの手紙を持たされるが、途中で水に濡れたために読んでしまい、危うく難を逃れること、この二つが男の体験の重要なモティーフとなり、王女への謎として使われることである。ペルシアの謎かけ姫物語で非常に好まれた題材だったのであろう。

   4. 『千一日物語』のカラフ王子の物語

ペルシアにおいて徐々にまとまってきた謎かけ姫物語を、初めてヨーロッパに紹介したのは、ペティ・ド・ラ・クロワである。ルイ14世時代のフランスで、東洋学者の息子として生まれた彼は、若い頃から中近東へ大使として滞在、多数の写本をフランスへ持ち帰ったりした。ガランが1704年から出版した『千一夜物語』が大評判をとったこともあり、ペティは1710年から1712年にかけて、『千一日物語』を出版した。その中に「カラフ王子とシナの王女の物語」という謎かけ姫物語も含まれている。主要な登場人物に名前がつけられるようになるのも、この物語が最初である。謎かけ姫の名前はトゥランドクト (Tourandocte) である。これは、ペルシア語のTuran Dokhtから派生し、「トゥーランの娘」と解するのが一番自然である11)。この名前が、ゴッツィの劇作以降、トゥーランドットと呼ばれるようになり、その後、プッチーニのオペラに至るまで受け継がれる。

トゥーランという地名に関しては、11世紀に書かれたペルシア文学の最大傑作といわれるフェルドウスィーの『王書』に次のような記載がある12)。「フェリドゥーンは運命の秘密をしると世界を三つにわけた。第一はルーム(小アジア)と西方。第二はトルキスタンとシナ。第三は英雄の国イラン」。そして長男がルームと西方の地を分配されると、「つぎに王は次男トゥールにトゥーランの地をあたえ、彼をトルコ人の国およびシナの君主とする」。そして三男がイランの地を相続することになる。こうした記述から、ペルシアでは、イランより東方の地域を漠然と「トゥーラン」と呼んでいたと考えられる。トルキスタンとシナを明確に区別していたわけではなさそうである。そう考えれば、シナの王女がトゥーランの娘と呼ばれるのも、不思議ではないのかもしれない。ペティの物語では、カラフの謎解きの成功を願って、ペキンでの宿屋の女将がアラーに祈る記述も見られるが、こうした不可思議な描写も、単に場面をシナと設定していることによるものであろう。

ペティの物語のあらすじを簡潔にまとめると、次の通りである。

《ノガイ族タタールの王ティムルタシュの一族は、ホラズム王の侵略により国を追われた。王子カラフは、放浪の途中、その土地の国王の鷹を見つけたことにより、国王に両親の面倒を見てもらい、馬や武具をもらって、ペキンまで旅をした。トゥランドクト姫の話を聞き、肖像画に魅せられ、謎解きに挑戦した。カラフは三つの謎に正答すると、絶望した王女に、自分が出す謎に正しく答えたら、自分の権利を放棄すると申し出た。その謎とは、「数々の苦労を味わってきたが、今は栄光と喜びの絶頂にある王子の名前は」というものだった。 王女は翌朝まで猶予を求めた。カラフの部屋を訪ねた女奴隷から、王女のカラフ暗殺という虚偽の報せを聞き、動揺したカラフは自分と父の名前を漏らしてしまった。翌朝、トゥランドクトは謎に答えた「王子の名はカラフ、ティムルタシュの息子」。カラフはがっくりしたが、王女はカラフへの愛を告白し結婚した。カラフは両親と自分の国を取り戻した。》 13)

以上が、ペティによりヨーロッパに初めて紹介された謎かけ姫物語の概要である。鷹の発見により運命が好転するのは、1650年頃の写本と同様であるが、鷹の持主の国王に、(奴隷として売り飛ばすわけではないにせよ)両親を売るという行為を預けることに変更したのは、親を売るということがヨーロッパ人には抵抗があったためであろう。また、ウリアの手紙のモティーフは削除されている。やはり、ペティがこの物語をフランス語で紹介した際に、多少の改変を加えたのであろう。『千一日物語』の前書きによると、イスファハンの聖職者であったモクレスが、インドの原作をもとに構想した手稿を、1675年、友人のペティが遺贈されたという。しかし、この原テクストは失われて現存しないという。また、膨大なペティの手紙のどこにもモクレスなる名前が見当たらないことから、モクレスが実在した人物だったのかどうか、疑っている研究者もいる14)。こうした点からみて、ペティが何らかの写本をもとにして、自分流に物語を整理して再構成した可能性が考えられる。謎かけの場面では、王女の謎が三つだけになっているが、この方が謎の場面をだらだらと続けるよりも強いインパクトがあると判断したからであろうか。この王女の謎を三つにしたことは、その後のゴッツィでも受け継がれ、シラーの翻案やブゾーニ、プッチーニのオペラでも踏襲されている。三つの謎の内容をどうするかで、それぞれの(台本)作家が工夫を凝らすといった状況をも生み出すようになったわけである。

   5. 謎かけ姫物語と謎解き姫物語の比較考察

次に、ペルシア起源の謎かけ姫物語とヨーロッパの謎解き物語との関係について考察する。ペルシアにおける謎かけ姫物語の構造を、(男の体験)、(謎かけ)、(夜の策略)、(結婚)というモティーフに着目して比較対照したのが、次の表である。

謎かけ姫物語のモティーフ対照表

  ニザーミー
(1197)
アウフィー
(1228)
作者不詳
(1650頃)
ペティ
(1711)
A.
男の体験
×2. 父母を売り、馬と衣装を調達
3. ウリアの手紙
1. 国を失い放浪
2. 鷹を発見し、持主の国王に両親を売り、馬と武具を調達
3. ウリアの手紙
1. 国を失い放浪
2. 鷹を発見し、持主の国王に両親を預け、馬と武具を調達
B
1. 王女の謎
象徴的な やりとり9つ4日間3つ
B
2. 男の謎
×父が馬、母が鎧、葉で救われた者は死を2度逃れ、3度目の死をも戦い取った王子とは苦難の末、絶頂にある王子の名は
C. 策略×女官2人と召使いに変装した王女が訪ね、答えを聞き出す女官を行かせ、酒を飲ませ答えを聞き出す 一緒に逃亡しようと訪ねた女奴隷が名前を聞き出す
D. 結末結婚策略が謎でほのめかされ結婚策略が謎でほのめかされ結婚名前を答えるが、愛を告白し結婚

この表から、次のような推測が成り立つのではなかろうか。すなわち、謎かけ姫物語は、原初の形としては、王女の謎(B1)と謎を解いた男との結婚(D)という簡単なモティーフだけだった。その後、話が複雑化していき、アウフィー(1228)により、スタンダードな枠組が完成される。その枠組とは、男が両親を売り身支度を整え(A2)、殺されかけた危険を逃れ(A3)、王女の謎かけに挑む(B1)。謎解きに成功したあと、逆に王女に謎を出す(B2)。謎の内容は男の体験に基づくものである。謎の答えがわからない王女は、夜に男の寝室で謎の答えを聞き出す(C)。翌朝、王女は謎に答えるものの、策略もばれ、男と結婚する(D)。ここで示したA2 A3 B1 B2 C D のモティーフが、謎かけ姫物語の基本的な構造と考えられる。

その後、この物語は、二つの方向に分化したという仮説を提案したい。一つは、王女の謎かけの場面が拡大されスペクタクルな要素が加わったり、男が戦いに敗れ国を追われた王家の一族であるというような前史(A1)が加わったりと、物語がさらに内容豊富になっていく方向である。 もう一つは、王女の謎かけのモティーフ(B1)が削除され、男の謎を解く謎解き姫の要素だけを中心とした民話が形成されていく方向である。 王女と結婚する男の謎が、自分の体験に基づく内容である点や、答えを探る王女の策略のモティーフも受け継がれている。こう考えると、謎かけ姫物語と謎解き姫物語との関連も理解できるのではなかろうか。

謎解き姫物語のヨーロッパへの伝播を考える上で、興味深い物語が存在する。トルコのジプシーの民話としてボルテ/ポリフカにより紹介されているものである。《財産を失った男が両親を売って旅立つ。王からウリアの手紙を渡されるが、この手紙を泉で読んでしまう。王女への謎は「母をかつぎ、父に乗る。自分の死で水を飲んだ」。》15) これは、アウフィー以降お馴染みのモティーフがそのまま出てくる謎解き姫物語ということで、ヨーロッパに移入される前の過渡的な段階の内容といえようか。こうした類話も、謎解き姫物語の枠組が A2 A3 B2 C D という構造で、王女の謎かけであるB1が削除されてできたと考える根拠となろう。おそらく、話の明快さを旨とする民話においては、王女の謎と男の謎の両方を一度に取り入れることは避け、男の体験とそれに基づく王女への謎というモティーフの方に重点が移っていったのではなかろうか16)。やがてヨーロッパに伝えられ、各地で謎の内容に変更が加えられた類話が作られるようになったことは、容易に想像できる。ペルシアでは一般的だったウリアの手紙のモティーフは、ヨーロッパでは、両親から与えられる毒という形に変形されたのであろう。どちらも男が命を狙われそうになるという共通点が見出せるからである17)。このように考えてくると、一見、単純そうに見える民話でも、かなり深い歴史的背景のあることがわかってくる。

なお、グリム自身、『千一日物語』のカラフの物語を知っていたようである。ヴィルヘルム・グリムの注釈で、東洋の物語の一つとして、『千一日物語』と代表作のカラフの物語が紹介されているからである18)。ただし、グリム自身は、「なぞなぞ」(KHM22)より、「ルンペルシュテルツヒェン」(KHM55)の方に、カラフの物語との類似を見出していたようである。「ルンペルシュテルツヒェン」では、最後で自分の名前を言い当てさせるというモティーフが出てくるが、これに関連して、自分の名前を謎として王女に出したカラフの話を引用している。もっとも、この小論で見たように、名前を当てさせるのは、ペルシアの物語の系譜でも、ペティの物語で初めて出てくるものであり、そう古い背景をもつとは言いがたい。どちらかとういと、謎王女物語の歴史的系譜の上からは、単一のモティーフの表層的な類似に過ぎないような気がする。


1) Aarne, Antti and Thompson, Stith: The Types of the Folktale. Helsinki (Soumalainen Tiedeakatemia) 1987, S.285f.

2) Kinder- und Hausmärchen nach der zweiten Auflage von 1819. Bd.1 München (Eugen Diederichs) 1990, S.91-93. なお、第3版以降では前半部分で別の話が混交され、少々違いが見られる。

3) Goldberg, Christine. Turandot's sisters. A study of the folktale AT851. New York & London (Garland) 1993, S.111.

4) エスピノーサ(三原幸久編訳): スペイン民話集 (岩波文庫) 1989、20〜26頁。

5) Meier, Fritz: Turandot in Persien. In: Zeitschrift der Deutschen Morgenländischen Gesellschaft. 95(1941), S.1−27.

6) ニザーミー(黒柳恒男訳): 七王妃物語 [東洋文庫191](平凡社)1971, 157〜174頁。

7) 黒柳恒男:ペルシア文芸思潮 (近藤出版社)1977, 203頁。

8) Meier, a.a.O., S.6f.

9) Meier, a.a.O., S.8f.

10) Meier, a.a.O., S.10-23.

11) Lo, Kii-Ming: "Turandot" auf der Opernbühne, Frankfurt am Main (Peter Lang) 1996, S34ff.

12) フェルドウスィー(岡田恵美子訳):王書 (岩波文庫)1999, 90頁。

13) Petis de la Croix, Francois: Les Mille et un Jours, Contes Persans. Nouvelle Edition. Paris (Societe du Pantheon Litteraire) 1843, S.69-117. Erzählungen aus Tausendundein Tag. Frankfurt am Main (Insel) 1963, Bd.1, S.177-303.

14) Aubaniac, Robert: L'enigmatique Turandot de Puccini, Aix-en-Provence (Edisud) 1995, S.20.

15) Bolte, Johannes und Polivka, Georg: Anmerkungen zu den Kinder- und Hausmärchen der Brüder Grimm. Hildesheim (Olms) 1992, Bd.1, S.197.

16) なお、王女の謎を三つ解いただけで、王子がすぐ結婚するという短い謎かけ姫物語も、クレタ島に伝わっている。 Kretschmer, Paul: Neugriechische Märchen. Jena (Eugen Diederichs) 1919, S.76f.

17) Goldberg, a.a.O., S.112.

18) Kinder- und Hausmärchen. Ausgabe letzter Hand mit Originalanmerkungen der Brüder Grimm. Stuttgart (Reclam) 1980. Bd.3. S.362.