心理学および大学教育考える高校生に求める知性


堀 啓造(香川大学経済学部)

counter: (2000/ 8/25からの累積)
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2000年8月18日に静岡県の高校教師の平2会で話した内容を少し膨らませたものです。なお,知能の話は用意していたのですが当日時間の都合でカットしました。
1.時事的話題
2.映画・小説の世界
3.心理学に展開する
4.教育へ展開
5.大学教育からの高校教育への不満
6.消費社会の現代
7.いろいろな知能観 − まじめに心理学
8.知能と知性について
9.高校生に知性をつける教育とは
グールドおよびベルカーブに関する註

1.時事的話題

最近は知的なことよりもアダルト・チルドレン,切れる,17歳など感情的な面や適応のほうが問題になってきている。その一方で,「分数ができない大学生」やその続編の「小数ができない大学生」のように知的な側面の問題も大きな声で指摘されるようになってきている。特に日経新聞は知的な側面の問題をよく記事にしている(最近でも 2000年8月10日,2000年8月18日の記事)。

日本数学会 大学数学基礎教育WG文書 LIST
教育フォーラム 西村和雄所長
我々の自身の報告
我々の活動に関する報道
毎日新聞 8/9 8/21 1999年度教育白書への言及
佐賀新聞 「分数が…」の編著者西村和雄教授に聞く 森対談

2.映画・小説の世界

映画「ブレードランナー」(小説「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」)のロボット(正しくはレプリカントだけど定義しないとわからないから簡易的にロボット)検出テスト 知能テストと家族(過去の記憶と精神的安定 ,cf トータルリコール)
ロボットは現実に密着した思考+不適応事態に(感情の)切れる(爆発),これはある種の人間の低知能をモデルにしているようだ。コンピュータは形式思考や記号として捉える方が得意。

小説「アルジャーノンに花束を」
低知能→高知能→低知能
 いずれにしても現実にはきわめて適応的

3.心理学に展開する

個性=性格+知能
性格と知能は結びついている。
キャッテルの性格検査には知能検査が入っている。
Big 5 でも openness(開放性)
村上宣寛・村上千恵子『性格は五次元だった』培風館 1999
村上氏のサイトからプログラムをダウンロードすれば自分で診断できる。 今ダウンロードできないけどどうしたんだろ。

辻平治郎編『5因子性格検査の理論と実際−こころをはかる5つのものさし』北大路書房
http://www.ec.kagawa-u.ac.jp/~hori/books/1998_7.html#05
和田の5因子
N(情緒不安定性)、E(外向性)、O(開放性)、A(調和性)、C(誠実性)

知性というときは現実に応用できるものをいう

4.教育へ展開

教育観 TOEFL なんかでも同じ550点でも日本人の550点は他の国と違って米国大学の授業の英語についていけない。→勉強方法が違っていて受験勉強と同じようにする。

日本の勉強は受験勉強は役に立つというより単に覚えて点数を伸ばすことしか考えないという意味の効率化しかしていない。そういう意味ではそのうち受験参考書の輸出がされるようになるかもしれない。しかし,受かるだけでいいの?

勉強をさせるときある程度の示唆は効果面が強いかもしれないが,それしかしない場合,マイナス効果が大きくなっているのではないか?

自分でこうだという発見があることが必要。もしくは,自分で工夫して見つけたものならコマではなく指し手となるので,意味づけがまだできる。

さらには,バンデュラのいう自己効力感なども重要。

日本の教育は小学校から大学までこういう感覚をあまり育てないところに問題がある。

そういう工夫がまったくできない人には別立ての授業。かつて米国で発見学習を物理学などでしたが,一部それで伸びた生徒もいたが,多くは逆に勉学意欲をなくし,成績も前の教育法のときよりも悪くなった。すべてのものに良い授業はない。しかし,勉強に意欲があるものに意欲をなくすような授業をみんなに押しつけるのは問題。

付け加えておくと,大学生も本を読まない。どうも(小説でもhow to でもない)きちんとした本を1冊もよまないようだ。おっと,このなかには大学のテキストも含まれるかな。教育学部のほうでも読まないというから,経済学部ならなおさらであろう。高校生にまともな本とは言わないから,小説や軽い新書(これは新書のなかでも軽い本という意味,中高生向きでいいです)を読む習慣をつけて欲しいですね。

5.大学教育からの高校教育への不満

カフェテラス式のカリキュラムが問題。
大学は数学が必要。しかし,数学を勉強しないで受験するものがいる。私立高校では文科系受験者向けのカリキュラムに数学をほとんど抜いてしまう例があるようだ。

また,一般教養として世界史は必要。西洋史は概略知っていないとしんどい。せめてルネッサンス,キリスト教,プロテスタント,カトリック,産業革命くらいは分からないと西洋的コンセプトを理解できる訳がない。本当は倫理社会ででてくる本をせめて2,3冊読んでいることも重要。

大学で必要というなら大学で教育すればいいともいえる。そうするとますます高校はいらなくなる。こっちも読んで。 そういえばそっちでもリンクしているけどここ(こっちが高校がいらないという話をしている)も。


6.消費社会の現代

3年ゼミの課題で「現代における幸福とは何か」という課題を出している。大平健「豊かさの精神病理」岩波新書はかならず参照するということと,哲学的に「幸福」を考えるのではなく,現状がどうなっているかを論じることということを条件にしている。大平健の本は「物質主義」の状況をうまく描写している。「物質主義」はいろいろ定義は可能であるが,「物質によって幸福を得ることができる」といものである。今ではそれをさらに進化させて「物質によって幸福であることを示すことができる」という考えになってきている。リースマン(『孤独な群衆』みすず書房)の他人指向性ですね。というよりもVALSの外部志向です。

単純にこの本を読むと,「物より心」というお題目に至ります。それじゃ,第2次世界大戦の(「精神一到何事か成らざらん」に代表される)「精神主義」になってしまうなどとは思い至らないようです。「精神主義」でなにか解決するのですか。現実に立ち向かうことができるのですか。そのような二分法を克服しなければなりません。

小論文。論理的に書くということ。それが思考を鍛えてくれるでしょう。そのとき参考になる本として
木下是雄『レポートの組み立て方』ちくま学芸文庫 1994
があります。ここで主張されているのは,事実と意見を区別する。引用をはっきりさせることです。

ところが,最近は社会構成主義の立場があります。その主張では,真実などない。徹底的な相対化が行われます。社会構成主義の紹介としては,

○ポストモダン 堀 啓造 Gergen(1991)の紹介
http://www.ec.kagawa-u.ac.jp/~hori/yomimono/postmodern.html

○京都大学杉万俊夫さんの本・訳本など
http://www.users.kudpc.kyoto-u.ac.jp/~c54175/page4.htm

があります。このような主義が強調されると,真実どころか,事実の認定さえも難しくなります。日常が,芥川龍之介の「藪の中」の世界(または映画の黒澤明「羅生門」)です。
これを悪用するひとはなんでも強引に主張できると考えます。このあたり性格の「誠実」との関係することにもなります。誠実でなく,一貫性を考えないひとは他人の意見も聞く必要ないのです。

さらに,インターネットやパソコン,i-modeの時代になり,記憶を外在化させる。検索できればいい。
はたして検索能力など処理能力をつけるだけで,コンテンツは必要ないのか?例えば化学の周期律表とか歴史的事実は覚える必要ないの?962オット1世は?

→直感的に考える力を考えるとやはり内部化が必要だ。例えば,間違っている,どこかおかしい,こういうアプローチはないかなど,は自分の中に記憶がないとでてこないだろう。いろんな意味の豊富化は自分の内面としても必要である。一度内部化しておくと,こんなのあったんじゃないかなというとっかかりも出来やすい。しかし,なんでもかんでも記憶させるということとは違う。内部化と外部化のバランスは難しい。外部記憶の検索が単語だけでなく,もっと違うシステムができればさらに外部化は進行するであろう。それがナレッジシステムか?

日本の得意技は幼稚化文明。アニメ(ポケモンなど),ゲーム機,ゲームソフト
世界は幼稚化していくだろう。ここでの問題は,「全能感」(自分は何でもできる,何でも認められて当然だ)「短絡的満足充足」であろう。社会システム全体がこのような感覚を強化している。ゲーム機やパソコンや自動販売機などがこの感覚をさらに強めている。このあたりは消費社会の大きな問題(こっち参照)。

また,マンガのなかには,自分の考えることが全てという考え方をするものがある。映画「マトリックス」などでもそういう考え方が披露されている。

このような中で論理的に考えるということがどんどん縮小している。知能テストから日本人(またはアジア人)は言語性知能が劣るという。もともと論理性に関しては弱い。ステレオタイプ的なとか,見た目のまま考えようとする傾向がある。幼稚化文明の最先端にいるという点では今後の世界文明をひっぱるかもしれない。それがはたしてどういう結果をみるのだろうか。現在の日本の若者が将来の世界像を示しているように見える。そこには良い面と悪い面があることは確かだ。ただ,感性重視型は結局遺伝子や親の教育力(たとえば文化への接触)に左右されることが大きくなるのではないだろうか。まあ,それでもいいか。

7.いろいろな知能観 − まじめに心理学

(a)知能と知能指数

 いくつも定義がある。例を挙げてみる。
 (1)高等な抽象的思考力
 (2)問題解決学習に効果的に働く能力(新しい問題を解く能力)
○(3)新しい環境に対する適応能力(新しい事態に対応する能力)
ウェクスラーによれば、知能は各人が目的的に行動し、合理的に思考し、しかも、能率的に自分の環境を処理しうる総合的・総体的能力をいう。

もともとは、フランスで小学校がつくられたが、親が家の子は頭が悪いという理由で学校に行かせなかったので(子どもは労働者だった)、本当に学校にいけないのか判断するのにつくられた(と聞いた記憶があるが,文献で出会ったことはない!?)。ビネー(Alfred Binet,1857-1911)。1905年ビネー式知能検査を作成。
*日本の小学校 1886
その後改訂 精神年齢(mental age MA)
→1916 ターマン(スタンフォード・ビネー式)米国
            MA(精神年齢)
  IQ(知能指数)=─────────×100
            CA(生活年齢)      chronological age 暦年齢

→   ウェックスラー 偏差値的にあらわす。
  IQ(正式にはID) 平均100 偏差15
  知能指数の測定は8点くらいの誤差はある。1点が絶対的なもの,固定的に考えてはいけない。また,発達的に変動するものでもある。
  
知能段階

 ━━━━━・━━━━━・━━━━━・━━━━━━━━・━━━━━━━━ 
  7段階  │ 知能指数 │知能偏差値│   評語   │理論的分布(%) 
 ─────┼─────┼─────┼────────┼──────── 
   7   │ 140以上 │ 75以上 │ 最優(最上知) │    1    
   6   │ 124〜139 │ 65〜74 │  優(上知)  │    6    
   5   │ 108〜123 │ 55〜64 │中の上(平均知上)│    24    
   4   │ 92〜107 │ 45〜54 │  中(平均知)  │    38    
   3   │ 76〜91 │ 35〜44 │中の下(平均知下)│    24    
   2   │ 60〜75 │ 25〜34 │  劣(下知)  │    6    
   1   │ 60未満 │ 25未満 │ 最劣(最下知) │    1    
 ─────┴─────┴─────┴────────┴──────── 
小林利宣編『教育臨床心理学中辞典』北大路書房 1990

(b) 知能に関する言説

(1)知能などというものはない

グールド『人間の測り間違い--差別の科学史』河出書房新社 1989
差別しようという歴史の一貫として知能指数なるものが利用されている。このような意見は心理学の中にもある。(因子を実体化して考えていることに対しても批判している)
「ベルカーブ」という本がでて,知能の差別的な面が再度浮き彫りになった。

グールドのようは批判は常に頭に置いておく必要があるだろう。(グールドに対する反論はで)。

(2)知能には一般因子gと特殊因子sがある。2因子説

   (スピアマン C.E. Spearman,1863-1945)
一般因子には3つの面がある。
@経験の原則:それが何であるかつかむ。例.猫だ。
A関係の原則:2つの事物からその関係を導き出す。例.白と黒の関係は
B相関の原則:1つの事物と関係から他の事物を導き出す。例.重いの反対は
これらはすべての能力に関係する。それ以外はその能力特有のもの。数学,社会等

この説明は私の好み。

(3)知能に一般因子はなく、いろんな因子がある。多因子説

  (サーストンL.L.Thurston,1887-1955)
  空間(S)知覚(P)数(N)言語(V)記憶(M)語の流暢さ(W)推理(R)
  これを徹底的にしたのがギルフォードJ.P.Guilford,1897-1988

(4)知能には全く別の側面があり合計するのは意味がない (多重知能説)

   (ガードナー H.Gardner )
  内容に結びついた情報処理能力がある。文化的環境の中で発達する。
@言語的知性(言語生成の流暢さ:詩人、法律家)、
A空間的知性(モノの位置、速度などの関係の知覚とその記憶、それらに基づいて行動を組み立てる知性:航海士、パイロット、チェスプレーヤ、建築家、彫刻家)、
B論理数学的知性(ピアジェの発達段階:論理学者、数学者、科学者)、
C音楽的知性(作曲家、演奏家)、
D身体運動的知性(からだの姿勢や運動の知覚と記憶、それらに基づいて行動を起こす知性:ダンサー、陸上競技、外科医、腕のいい職人)、
E社会的知性[対人的知性](社会関係の知覚、理解、記憶、それらに基づく社会的行動:セールスマン、指導者、臨床家、教師、役者)、
F個人内知性(自分自身の正確な作業モデルをつくりそのモデルに基づいて効果的意思決定をする能力。自分の感情や考えをモニターする:現代社会において大きな価値をもつ)
(時間的知性(時間関係の知覚、理解、記憶、それらにもとづく行動の発現)、絵画的知性)
文藝春秋編『知りたい脳』文春文庫 1994 p222
最近はさらに追加されている。


知能にいろんな面があるだろう。このようにいろんな面があるからといって,従来の知能を否定しているわけにはならない。ガードナーは彼の提案する知能に対応する知能テストを作らないから,理念的な戦いにしかならないのも残念だ。

(5)知能は遺伝で決まっている。

プロミン(安藤・大木訳)『遺伝と環境』培風館 1994(1990) p92-94
遺伝:幼児期15%程度 児童期30%程度 青年期50%程度 成人期55%程度
環境:   10%      30%      10%       5% (共有環境)
cf.ニューズウィーク日本版 1994.11.2号 第9巻42号 p60-70
これをどう解釈するかは重要。たった,50% or 50%も。
いずれにしても,遺伝も環境も決定的な因子ではないということ。

but 東洋『日本人のしつけと教育』 東京大学出版会 1994
 養育態度と知能・学力の関係


(6)知能は発達する(知力 波多野・稲垣『知力の発達』岩波新書)

人間は知的好奇心をもっている。豊かな環境や知的好奇心を育てる応答する環境ならば知能は伸びていく。賞や罰で教育するのは知的好奇心を失わせる。
 知力=知能+意欲

この考え方は今でも重要だと考えています。

(7)知能という固定したものはない、文脈で決まる。(最近の認知科学。佐伯胖)

ある能力が欠けているのではなく、その問題の提示の仕方がその人に合っていない。

これって,知らない場面で応用できる能力という考え方をはずしてしまっているんじゃない。できないは全然出来ないという意味じゃなかったはずですが。ピアジェ批判から認知科学のこの考え方は知能観の違いですよね。ま,広げて言うと,形式陶冶と実質陶冶です。

(8)結晶性知能と流動性知能(キャッテル Cattell,R.B. 1905-)

@生得的(遺伝)に決まっている知能:流動性知能 Gf  fluid ability
  中心: 推論。帰納、演繹、接合、離接推論:刺激間の関係、その含みの理解、     推論を導く。 帰納、図の関係の認知、数量的推論:Raven の行列検査
  (年齢とともに下降する)気づき、推論、チェックのスピード
A生後の学習等により変化する知能 :結晶性知能 Gc  crystallized ability
  中心:言語理解、意味系の評価、意味関係の認知 →累積知能 知識:語彙力
  (年齢とともに増加する)知恵(wisdom):長期記憶検索
  :視覚知能(上がって下がる)

この考え方は受け入れてます。Carrollの研究によると,結晶性知能の代表とされる語彙力および流動性知能の代表Raven の行列検査は因子分析の結果,中心より少しずれてるそうです。

(9)民族による違い(Jensen など)

米国の白人と黒人は知能の平均白人100,黒人はこれより低い。3歳から違う。ガードナーのいうようにいろんな知能を考えれば,運動系は黒人がはっきりいい。

所詮,白人社会のビジネス社会でのエリート出世可能性を測るものでしょ。
cf.民族は曖昧な概念。また、文化によって必要な知能が違う可能性がある。
集団に関する平均値は個人を表すものではない。個人によって違っている。
遺伝→民族差という短絡的に考えるべきではない。いかに伸ばすか。

日本人に関しては、米国と比較して101〜130の研究あり。
日本人・モンゴル系は空間的知能が優れている。言語的、時間連続(系列)的(推論、暗唱)な処理に弱い。日本・米国の比較およびアジア系アメリカ人の比較

(10)言語性知能、非言語性知能

言語性知能は比較的文化・教育によって決まっている。非言語性知能だと、文化の違いや教育程度などと関係なく測定できる。

だからといって,非言語性知能で言語性知能をすべて測ることはできません。

(11)スタンバーグの類型化

ロバート・J・スタンバーグ(遠藤公美恵訳)『知脳革命−サクセスフル・インテリジェンス』 潮出版社 1998.
 分析的知脳(比較,対照,判断,評価,分析)
 創造的知脳(発見,発明,想像,仮定)
 実践的知脳(活用,利用,適用)(暗黙知)

cf. スターンバーグ『思考のスタイル−能力を生かすもの』新曜社 2000.
 思考スタイルの機能 立案型,順守型,評価型
 思考スタイルの形態 単独型,序列型(継時型),並列型,任意型
 思考スタイルの水準,範囲,傾向
   巨視型,微視型,独行型,協同型,革新型,保守型
  cf. ユングのタイプ論と似たMBIのタイプ分け

スタインバーグの考え方は,必ずしも昔の知能観を超えているとはいいがたい。実践的知能に「暗黙知」を仮定しているが,この暗黙知を理解するのが従来の知能観とりわけスピアマンのg因子である。暗黙知をすべて明示化しているのが米国型のマニュアル主義と言える。日本のほうが暗黙知を重視していると思われるが,米国でこれを重視する知能観がでるとは驚きである。

8.知能と知性について

知能に関して

(1)知能はやっぱりあると考える方がいいだろう。g もあるのでは。
そのとき,違いが分かる。ルールを抽出できる。ルールを適用できるというあたりか。
結果としては一律のタイプではなく,例えば体を使う方が考えるよりいいとかその逆の人がいるだろう。それによって大きくタイプは異なるし,必要な技能も違ってくる。
→これができるならそのやり方でもいいよ。

(2)結晶性知能も重要。一度自分のものにすること。ただし,どの程度を自分のものにするかは問題。歴史もあとで自分でまたは大学教育で学び直すのに不自由しない程度ならいいだろう。あらすじ型歴史でいいのか?

知性に関して

知性は単純に知能ではない。知力の考え方にもあるように意欲の側面もあるし,性格の「開放性」や「誠実性」も関係する。たとえば,問題に柔軟に対処しているように見えるのは性格の「開放性」関係している。また,かれならきっちりやってくれるよという面は「誠実性」と関係している。そのような側面があれば知性があるように見える。

単純化すれば,

知性=知能+意欲+開放性+誠実性

知能の中になにがあるかこれは因子分析型の研究でいろいろいわれているところである。

知性といえる最低限のレベルは対人関係のトラブルを言語によって解決しようとする態度であろう。すぐに暴力に訴えるようでは知性があるとはいえない。これは最低限自己制御ができるということである。

9.高校生に知性をつける教育とは

(0)唯一の解はない。つまりいろんなタイプがあっていいのだ。教育もいろんなタイプがあるのがいいのだ。単一の考え方の教育システムを作ると,知能と学業成績との相関が高くなる。

(1)大学に進学するなら,まず定食で,高卒でいいなら,カフェテラス型がいいでしょ。

(2)大学に進学するなら,ほとんどの専門において数学的思考が必要。経済学科などは数学がなければダメ。Σを恐れてはいけない。行列が思考の基本になる。(なら大学で教えれば)

(3)これからは中間管理職がなくなる。自分で意欲的に考えるか,肉体を使うかの分かれてくる。ただし,スポーツ選手は肉体+頭脳であることは明らか。

(4)丁寧に指導するべきか,自分で考えるようし向けるべきか考えるとき。これは大学でも大問題。

(5)心理学的には,自己の能力を徹底的に活かすことが重要だが,そのための訓練を外からやりすぎるとスポイルする。また,望まなければスポイルする。

(6)また,勉強をまったくいやがっているものを学習させるべきなのか?なにをリラックスさせることがもっともいいのか考えるべき時期だ。個人的には,高校卒業資格試験を少数科目のゆるい形で実施し,あとはかなり自由にしてもいいのかもしれないと考える。ただし,日本語表現力は徹底的に鍛える。

(7)反知主義ではだめ。マズローの欲求階層説においても,知的な関心がなければ上の欲求にはいかない。決めつけではなく,たえず自分で現状を見,行ったことのフィードバックが得られることが重要。自己効力感をもてるようにする。これが結論かな。

つまり,今の教育の仕方のある部分は子供を「反知主義」に追い込んでいる。そうならないようにいろんな工夫をする必要がある。それは,極度に暗記主義であったり,一定の手順さえすればいいとか,はじめから理解することをあきらめさせているとか,いろいろある。英語なども,難しい内容を次々与えるよりも,文章は易しいけど,知的な刺激のある内容をたくさん読ませることのほうが重要であろう。

高校生に望む知性はまず知に対する希望を持たせることであろう。知に対するニヒリズム持たせたり,自分と関係ないと思わせることはまず避けるべきことである。
その一方である程度結晶させるべきものもある。これは,小・中・高・大とも抱えている問題である。小学校から勇気をもって落第させるべきではないか。もちろん厳しい基準を持つのではなく,緩い基準で。複数科目がだめなら学年の落第,1,2科目なら仮進級とかの大まかさも必要でしょう。ただし,そのためにも補習教育をなんらかの形で必要です。そのようにして学年に対応した学力をつけるようにする。このようにいうと今より厳しい学校がでてくるでしょうが,本当は中学校をもう一度やったほうがいいということが現実にはあるのでは。そういう生徒たちにこそ,生徒一人当たりの教師を増やしてやることが望まれます。

ここで論じようとしたことの一部は,中村雄二郎『共通感覚論』岩波現代文庫(2000)の第3章の常識,良識ということで論じられていることがあとで分かりました。哲学から論じていますので,ここでは考えていない視点で重要なこともあります。参照してください。
2000年8月29日追記

《その他参考文献》
安藤春彦『知能とは何か』ブルーバックス(講談社)1987
丸野俊一『知能はいかにつくられるか』力富書房 1988
Carroll,J.B. Human coginitive abilities. Cambridge Univ. Press. 1993.
Sternberg,R.I.(eds) Encyclopedia of human intelligence. Macmillan, 1994.
Herrnstein and Murray The Bell Curve. Free Press. 1994.
グールド『人間の測り間違い--差別の科学史 増補改訂版』河出書房新社 1998

別冊日経サイエンス 知能のミステリー 日経サイエンス社 1999.10
この別冊は最近の代表的な知能の考え方が説明されている。読む価値があります。
いい本なのだけど,p7 左最下行に誤訳がる。米国心理学会の報告書が刺激となって,マレーとハーンスタインの『ベル・カーブ』が刊行されたというように書いているが,これは全く逆。日経サイエンス社にe-mail したところ次の刷では直すということだが,なかなか2刷にならない。この誤訳は『ベル・カーブ』がいいもんになってしまっている。

心理学ワールド 5号 特集 知能をめぐる心理学 1999年4月

グールドに関する註
グールドの『人間の測り間違い』に対して,因子分析や知能テストの因子分析の考えに対する反論は
Carroll, J.B. (1995). Reflections on Stephen Jay Gould's The Mismeasure of Man (1981). Intelligence 21, 121-134 .

さらに知能測定擁護論は次のほうが徹底的。また,この号は知能擁護論の特集号になっている。
Carroll, John B. (1997). Psychometrics, intelligence, and public perception. Intelligence, 24(1), 25-52.
Carroll は知能を学習のスピードと考えている。これはSkinnerのプログラム学習と同じ発想です。スピードが遅いと質的に違ったことが生じるということについてはまったく無視しています。そのときねばり強さも影響しますが,これは知能?
ベル・カーブに対する米国心理学会の反応
Ulric Neisser et al. (1996). Intelligence: Knowns and Unknowns. American Psychologist,
 こっちにもある。
知能関連文献 但し,文献の集まり方にバイアスがあるようだ。
The Bell Curve 批評文献集

この中のGouldのコメントは『人間の測り間違い』(1998) に訳されているが,重要な部分にも誤訳があることを確認されたし。

The Bell Curve:Links and Resources

知能テストの古典英語論文集

なお,ベル・カーブに使ったデータはインターネットで公開されている(こっちにも)。統計学的処理と主張は直結しないものです。

Kagawa UniversityFaculty of EconomicsKeizo Hori(home page)
e-mail hori@ec.kagawa-u.ac.jp