リースマン 伝統指向型・内部指向型・他人指向型


堀 啓造(香川大学経済学部)
2000/9/5

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リースマン Riesman, David(1909-2002) 佐賀新聞 毎日新聞(2年間有効) 天声人語 (すでにリンク切れ)
英文紹介記事

 フィラデルフィア生まれのアメリカの社会学者。ハーバード大学で法律学を専攻し、しばらく法律家として実務に携わった後、バッファロー大学の法律学教授に就任。第2次大戦後はシカゴ大学の社会学部教授を経て1958年ハーヴァード大学教授、そして同大学名誉教授。

簡単な紹介記事 英文
写真と追悼記事

リースマンの訳本
『孤独な群衆』みすず書房 (1964)
『群衆の顔』上下 サイマル出版社
『個人主義の再検討』上下 ぺりかん書房
『政治について』
『日本日記』みすず書房
『何のための豊かさ』みすず書房
『大学教育論』みすず書房(その他大学関係の訳本あり)

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リースマン『孤独な群衆』みすず書房 (1961/1964)
 目次 おおよその内容を想像して見よ。
日本語版への序文
序文
第1部 性 格
第1章 性格と社会の類型
 1 性格と社会
 2 性格のたたかい
第2章 道徳律から規律へ
 1 両親の役割の変化
 2 教師の役割の変化
第3章 仲間による審判─性格形成要因の変化(2)
 1 内部指向段階における同輩集団
 2 他人指向段階における同輩集団
第4章 技術の教師としての物語─性格形成要因の変化(3)
 1 伝統指向段階における歌と物語
 2 内部指向段階における印刷物の社会化機能
 3 他人指向段階におけるマス・メディア
第5章 内部指向型の人生
 1 作業中
 2 2次的なものとしての楽しみ
 3 自己を認める苦悩
第6章 他人指向型の人生─「見えざる手」からよろこびの手へ
 1 経済的問題─人間的要素
 2 銀河
第7章 他人指向型の人生(2)─夜の切りかえ
 1 食物と性の象徴的意味の変化
 2 大衆文化の消費の仕方の変化
第2部 政 治 
第8章 政治のスタイルからみた3類型─無関心派・道徳派・内幕情報屋 
第9章 政治的説得─憤慨と寛容
第10章 権力のイメージ
第11章 アメリカ人とクワトキル族
第3部 自 主 性
第12章 適応と自律性
 1 適応型、アノミー型、自律型
 2 内部指向段階における自律型
 3 他人指向社会での自律型
第13章 偽りの人格化─仕事の場面での自律性への障害
 1 仕事の文化的定義
 2 魅惑の追求、集団埋没、重要人物
 3 人格化過剰の社会
第14章 強制的な私生活化─あそびの場面での自律性への障害
 1 社交性の否定
 2 社交性と女性の私生活化
 3 社交性の詰め合わせ
第15章 才能の問題─あそび場面での自律性への障害(その2)
 1 「もの」としての遊び
 2 才能の諸形式
 3 仕事以外の相談係
 4 子ども市場の自由化
第16章 自律性とユートピア
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『孤独な群衆』を読むことを奨めるが,長いので時間がかかる。短い要約のため誤解している人も多いし,その意義を矮小化している場合もある。そこで,短時間で理解するのに必要な抜き書きをする。

伝統指向型(tradition-directed),内部指向型(inner-directed),他人指向型(other-directed)については『群衆の顔』にいい要約がある。次に引用する。

リースマン(國弘正雄・久能昭訳)『群衆の顔』サイマル出版会(1952/1968) p32

《伝統指向型》
 伝統指向の性格に依存している型の社会では、個人生活の変動は極めて激しく、破局的ですらあるかもしれないが、社会全体の変化は微々たるものである。この社会の同調性は、個人の生まれつきの性別と身分に由来する特定の社会的役割に限定されているが、若い者に、伝統に対する自動的ともいえるほどの服従を教え込むことによって支えられている。伝統に対する服従は、それに伴う報酬とともに幼児においては、その周囲にいる一族の人たちによって、また、おとなになるにつれて、それぞれの性別集団によって教えられることが多い。

 こうして、人は他人からほめたたえられるような、難しい、いろいろな技術を身につけるとともに、その社会のある規範を破った際に、自分の身にふりかかる辱めを避ける知恵をも学びとるのである。こういう社会は、その始原的形態のままでは、今日のアメリカにはほとんど存在しない。

《内部指向型》
 時が移るにつれて、伝統指向の社会は「たえず強制された慣習への服従」ということよりも、むしろ幼年時代に、両親その他、おとなの権威によって「内面化された規範への服従」に支えられた、新しい型の同調性へと変化していった。指向にかかわるこの本質的変化は、西ヨーロッパやその属領地で、歴史的に新しい社会的役割が生まれてきたことの原因ともなり、結果ともなった。その役割とは、それまでのように伝統的慣習(mores)に硬軟いずれにせよ注意を払うだけでは、とても子弟に対する十分な準備にはなりかねるようなたぐいの、全く新しい役割であった。そこで始めて、大家族の権威ではなく独自の権威をもった親が出現し、その子弟に、拡大していく社会が期待するどんな目標をも必ず成し遂げるという固い意志を、植え付けるにいたったのである。

 内部指向型は、仕事、自己、余暇、子供、歴史などに対する姿勢によって説明することができる。だからといってこれらの姿勢には、明確に、すぐ単独で取り出せる基準は一つもない。だが、こういうことはいえるのではないか。内部指向型という概念の中心は、その是非はともかく、個人の全生活が、ごく一般化された目標─たとえば富、名誉、善、成功─によって導かれているということである。このことは、両親やその他の影響力のあるおとなたちと同一視し、彼らを模範とすることにより、早くから植え付けられたのである。人は、この目的の中で、悩みもすれば、目的を成し遂げるために失敗もしながら、とにかく苦心惨憺して努力するものなのである。

 こうした社会では、人生とは、目的を指向するものであり、その方向を定めるものは内なる声であるということを疑うものは一人もいない。比喩的にいえば、このような人はジャイロスコープ(羅針盤)で操作されている人に例えられよう。そしてそのジャイロスコープは成人によって与えられたものである。そして、青年が人生を航海するとき、職業のうえからも、社会的にも、また彼が遠く代々住み慣れた故郷を離れる場合には地理的にも、青年を安定させるのはこのジャイロスコープなのである。

《他人指向型》 
 すでに指摘したように、内部指向型の人は急速な社会変動にうまく対処することができるのみならず、その変動を、個人的な目的の達成のために利用することを心得ている。しかし、その変動が急激すぎる場合には、内部指向型の人の方が他人指向型の人よりも、弾力性に乏しいといえる。というのは、他人指向型の人がもつ同調性は、成人の権威を受け入れることよりは、むしろ同時代の人たちが抱く期待に敏感に反応するからである。他人指向型の人間は、ジャイロスコープ(羅針盤)で舵をとりながら生涯の目的に向かって進む代わりにレーダーによって捉えられた、手近にある目標(それは常に動揺し、変化するものであるが)に従うのが常である。このレーダーも同じく幼年期に据え付けられたものであるが、両親や他のおとなたちは、いつでも周囲の人々に調子を合わせ、彼に対する親やおとなたちの反応と親とおとなたちに対する自分の反応をたえずにらみ合わせていくようにと教え込むのである。

 こういう他人指向型が増え、それに伴って他人に対する敏感さが増大したのは、現代産業社会の広範囲かつ加速度的な社会構造の変化の結果でもあり、また原因でもあった。その変化とは、「新」中産階級の増大、生産よりも消費に対する関心の増大、子供に対する親の自信と監護力の弱体化、など列挙すれば際限がない。この場合にも、仕事、消費、性、政治、そして自己など、生活の主要な側面すべてに対する新しいさまざまの態度がみられ、性格構造と社会構造の変化を反映し確認している。かくして対人関係の世界は、人間劇の舞台装置としての物質的自然界と超自然界とを、我々の視界から見えなくしている。

 他人指向は、ある社会が衣食住など生存に不可欠な問題はもとより、大規模な産業組織と生産の問題すらがほとんど解決され、少数の有閑階級と広範なレジャー大衆とが、それ以外のことがらに関心を抱く余裕を与えられるようになってはじめてその姿をみせる。このような社会では、いつまでも勤倹(仕事にはげみ、また、倹約につとめること。勤勉で倹約なこと。)の精神と欠乏恐怖観念とにとらわれ、禁欲主義的なピューリタニズムを頑固に守るような消費者は、その存在が否定されるのである。アメリカ以外でこのような事情にあるのは、スウェーデン、オーストラリア、ニュージーランド、、その他の少数の国々に限られ、それも部分的に実現されているにすぎない。しかし、アメリカにおいてさえ、他人指向はまだいわゆる「アメリカン・ウェイ」の同意語にはなっておらず、内部指向が依然として重要な位置を占めているといえよう。

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p34
内部指向型の子どもというのは、家から離れてまっすぐに飛んでいくことを教えられなければならない。そしてその目的地がどこであるかはまだ分かっていないというわけだ。...子供たちに中に植えつけられる衝動は、「目標に向かって進み続ける」ことであり、自らを訓練することによって、自分の能力を試すことである。

 伝統指向によって同調性が確保される社会にあっては親は子供たちを大人の世界にとって厄介者にしないように努力を傾ける。そして、この作業は概ね、兄や姉やあるいは両親以外の大人たちの手にゆだねられる。そして、子供たちは表面に現れた行動についての同調性を持つことによって社会の平和が保たれるのだ。ということを学びとり、かれをとりまく周囲の人々の顔色を伺う─あるいは少なくともかれらを困らせない─ことを学習していく。これと対照的に内部指向型の両親は自らにも多くのことを課するが子供たちにもまた多くのことを課する。血縁的な大家族が消滅して、両親が子供たちを自分自身の直接の、そして集中的な観察と統制下に置くようになってくるから、親たちはこうならざるを得ないのである。...性格的な適性や自己訓練を立証するに足るような同調性がそれである。とりわけピューリタンの場合には、親たちは自分も自分の子供たちも神によって運命づけられた選ばれた人びと(選民)であるというふうに考える。そして、この選ばれた人びとという観念が世俗化される時、それは社会的流動性の観念に変形されてゆく。すなわち、人は地獄から天国へと言うのでなく身分の秩序の世界のなかでどんどん「ひとを追い越して」ゆくという考え方だ。親たちは一方ではこうした世界のなかでの失敗の可能性をも考える。─なぜなら、かれらは自分自身についての罪の意識と不安を持っているからだ。だが一方、かれらの才能にも希望をかける。そしてこの才能は決して無駄にされてはならぬ。(能力を目一杯伸ばしきる=>かつての心理学)

 ...内部指向的親というのは無意識にでもあれ、子供に対して厳しい強制的な、そして熱心な態度で望むものだ。実際、内部指向的な人間というのはしばしば気楽な付き合いをする能力を欠いている。...逆に時間を無駄にしないことによって自分自身についての不安を避けるのである。さらにまた、かれの人びとに対する態度─その中にはかれの子供たちも含まれる─は自らに試練を投げかけ、自らを訓練してゆこうとするかれのたゆみなき性格的な欲求によって媒介されている。

 内部指向型の子供は壁に囲まれて成長する。この壁というのはまさに両親のプライバシーの物理的シンボルだ。...壁は子供を両親から切り離し、職場と家庭とを切り離す。そのようなわけであるから、子供たちにとっては親の命令を「普段着のままで」批判したりすることが仮に不可能でないにしてもきわめて難しくなってくる。親のいうことはしばしば、親のすることよりも現実的なものとなる。─行為よりも言葉の方が現実的になるというのは、まさしく言葉が意志の交換や指導やコントロールの手段としてますます重要になってきている社会での特徴的な訓練方法である。...フロイトのスーパーエゴ...

他人指向 p38
企業も政府もそしてさまざまな職業も著しく官僚化されてくる。...そこではもはや一人の人間がどのような人間であるか、かれが何をするかということはあまり重大ではない。より重大なのは、他人がかれをどう思っているかである。─そして、かれが他人をどれだけ上手に操れるか、そして自らどれだけ上手に操られることができるかという才能がそこではものをいう。...いま需要のある製品は、必需食料でも家庭用機械類(例.家電製品)でもない。それはパーソナリティである

 他人指向型のパーソナリティ類型と、かれのおかれている経済的な背景と一緒にして観察してみるそこには面白い対応が見られる。すなわちそれは、独占的競争一般の特徴をなす「製品差」(product differentiation)と似たような考え方がパーソナリティの生産についても言えそうだからである。この「製品差」というのは経済学者の用語だがそれは次のようなものを意味する。すなわち、ある会社の製品が類似の競争商品と競合しているときに直接の価格面での競争をせずに広告活動と呼応しながら、ちょっとしたちがいで勝負をする。そういう工夫のことだ。たとえば、普通のより少し長いタバコとか、切り口がやや楕円形になったタバコとか、コルクの吸い口がついているとか、緑色の箱に入っているとか、そういった種類のわずかな違いを「製品差」と呼ぶ。「タイム」誌と「ニューズウィーク」誌とは製品差の競争をしていると考えてさしつかえない。自動車や流線型列車や歯磨きのメーカーも同じようなことをやっているし、ホテルや大学の経営者も似たようなことをやっている。まったく同じことが企業や政府や専門的な職業を求めて競争しあっている人びとについてもいえるのである。(それはかれらの実際の技能と対照的なものだ。)その差はほんのちょっとのものでなければならない。あまり違いすぎると具合が悪い。たとえば、1934年型の箱型のクライスラーのようなものはあまりに突飛でありすぎる。この競争的な手続きの社会的側面は人間やサーヴィスや商品などにまで拡大して考えることができる。この本の中ではこうした広い意味を採用してこれを仮に《限界的特殊化》と呼ぶことにしたい。そして経済学者が使う「製品差」という概念と一応区別しておくことにする。

-------------------------------------- 中央経済社『現代商業・流通辞典』1992
製品差別化 product differentiation
不完全競争ないし独占的競争をもって特徴づけられる市場において、市場競争の形態として、非価格競争が一般的に展開される。企業が、自社製品について、価格以外の点で競争製品と区別されるような一つ、またはそれ以上の特徴をもたせることによって、差別的優位性をはかる方策である。製品差別化の目的は、自社製品に固有の特質を強調し、消費者に他者の製品と差異を識別させることによって、市場の開拓を計るものである。製品差別化は、製品の品質、デザイン、スタイル、パッケージ、製品サービスなどの差異を強調することによって達成される。ブランドの設定によっても、製品差別化は促進され、消費者の選好(preference)は安定したものになる。また広告やプロモーションによって、製品差別化の範囲が強化される。広告による知名度の高い企業の製品は、消費者の選好によって、メーカーの価格切り下げ動機は弱まり、価格競争が行われにくくなる。(ブランド・トレランス)
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 個人だの集団だの、国家だのが、小さな違いを引き合いにだして自分以外の個人や集団や国家と自らをはっきりと区別し、それをおのれの誇りとすることをフロイトは「取るに足りない相違についてのナルシスズム」と名付けた。われわれがここでよぶ限界特殊化はときとしてこのような誇りの感情ないし、ヴェブレンのいう「不愉快なる差別」を含むこともある。しかし、私がここで考えようとしているのは誇らしい感情というよりも一種の不安である。あけっぴろげに互いに競い合うというよりはむしろ、隠微な競争である。後で詳しくとくようにナルシシズムは他のより強力な要因によってすっかり打ち消されてしまうか、ないしはそれと混合しているのである。

 ...だから、現在の親たちは子供たちにはっきりとした自我と社会のイメージを植えつけるということをせずに、むしろどのようなことになろうとも出来るだけのことをするという習慣を子供に教えるのである。ところが,この出来るだけのことをするないし最善をつくすということは、親たちのコントロール範囲内にはない。それをコントロールするのは学校や同輩集団である。これらの集団が子供を秩序の中に位置づけるのだ。しかしこれらの権威は漠然としてしかもの申さない。

 ...他人指向的子供たちは自分が善き行いをしなければならないという要求に直面しているだけでなく、善き行いをすることの意味を自ら規定していかなければならないという問題も背負っている。子供は自分自身のおかれた位置と自分自身についての評価を自分の力によってではなく、自分のつきあっている仲間たちから与えられているのだ。すなわち、まず学校のクラスメートや先生たちから、さらに仲間たちやそして成長した後には同僚や上役たちから。だが自分のつき合っている仲間たちそれじしんが正しいという保証はどこにもない。そこで、かれはマス・メディアのなかに散りばめられているさまざまなな集団を次から次へと気まぐれに歩いてゆくことになる。

 そこでは他人から認められるということが、その内容と一切かかわりなしに、ほとんど唯一絶対な善と同義になってくる。すなわち自分が認められたということは、自分がいいことをしたということに他ならないのだ。このような訳で、他人指向段階の社会ではあらゆる権力─ある種の権力というだけでない─は人間を認めてくれる。...そして、子供は自分の性格とか、自分の財産とか、自分の受け継いだ家名とか、才能とか、あるいは自分のした仕事とかは、それ自身として評価されるものでなく、それらが他人との関わりにおいてどのような効果をもったかで計られるのだ。ということを両親のかれらに対する反応から学びとるのである。友達を作ること、あるいは自分に相応しい友達を作ることがすなわち、善き行いをしたということだ。「認めた人間にはより多くの承認を与える」のである。


他人指向型の特徴
を『孤独な群衆』から抜き出して見よう。註を()内に付け加えている。太字は引用者

(1)子供は両親の感情的な緊張の場面に直接接触するために、他人とのかかわりにおける自己意識が高まる。(核家族で小さな家)

(2)親たちは自分たちが子供たちよりも偉いのだという感覚を持ち合わせていない。
(他人指向型の子供は親たちよりも、物知りである。)

(3)都市の家庭の中で子供がやらなければならない仕事というものはなにもない。子供たちが小さい間は、親と子の間の議論の焦点はもっぱら、食事時間とか、睡眠時間といった問題である。子供たちが大きくなると、自動車を誰がいつ使うかという議論である。だが議論の性質がこのようなものである以上、親たちが勝利をおさめるということはだんだん難しくなる。

(4)消費だの、レジャーだのという問題はもはや自明の理ではない。これらの問題についてなんらかの決断が必要な場合には、その決断のモデルは家庭の外側の世界にあるモデルを頼りにする。たとえば、マス・メディア。

(5)家庭の中で祖母が中心的な役割から放り出されてしまったということは、社会的変化の速さを象徴的にあらわすものである。現在、われわれが直面しているのは、「消費のフロンティア」とでも名付けるべきものであるが、祖母はこの問題から2世代へだったところに生きている。親たちは若くありたいという願望、並びに子供たちに影響を与える立場にいたいという願望から、子供たちから取り残されないように努めるが、それを祖父母に期待することはすでに無理である。祖父母の子供への影響は無視していい。

(6)兄や姉の弟や妹たちへを家庭教育の役割はなくなった。それぞれアルバイトのほうが魅力的だ。家庭の中での子供たちの振る舞いは2流ホテルの威張りくさった宿泊客のようなものだ。かれらは、ホテルの支配人たる親たちにいろいろ苦情をならべ、改善を要求する。支配人は表には微笑みをたたえながらも心中、はなはだ、穏やかでない。(小此木啓吾『家庭のない家族の時代』ちくま文庫 ホテル家族)p48

(7)《住居》伝統指向型中心時代は拡大家族で住居は、固定的。内部指向段階においては、未開地や都市など、生産のフロンティアを求めて移動する(核家族化)。他人指向段階においては、生産のフロンティアを求めて移動するだけでなく、同時に《消費のフロンティア》を求めて移動している。すなわち、かれらはいい場所に住んで、いい人たちと子供たちがつき合えるようになるようにという意識から、住む住所を選ぶのである。...ひとつの都市の内部で、あるいは都市から都市へ人が移住するのはより良き仕事を求めての移動でもある。しかし、それは同時によりよき環境、そして、よりよき学校の近くに住むという動きでもある。多くの人びとが、今やより良き環境に住居を選ぶようになってきたし、またアメリカの都市の中で住居地域の価値と流行とが著しく移り変わるものである以上、一生を安心して同じ場所に住み着くということは、ますます、難しくなってきているのである。(例えば、子供たちが大きくなってそれぞれに結婚した後では、両親は再び、移住することを考えるだろう。そして、その移住の動機になるのは、健康地を求めての移住というようなものであろう。)このようなわけで、他人指向型の親たちは、自分たちの住んでいる場所によって、子供たちの接触する場面の豊かさを獲得しようと試みるのである。...1人ないし2人の子供をかかえて、都市、ないしは郊外に住んでいる家族の居住空間は狭くなってきている。だから、かれらは物理的空間および、情緒的空間を家庭の外に求めて、それを子供たちの活動のために利用しなければならなくなっている。(この変化が起こったまさにその時期に、労働者階級の家族は初期の工業(産業)社会におけるよりも、はるかに大きな居住空間を獲得することが出来るようになった。しかし、ここでわれわれが論じようとしているのは中産階級の家族の歴史なのである。)p58-58.

(8)《趣味》内部指向型の子供が友達を選ぶ原理:その友達が同じゲームだの、趣味だのを持っているということで友達を決める。

 同じ趣味をもった子供が、仲間になるのはきわめて専門的で細かいことを話し合うためである。...だが、他人指向的な趣味生活の中ではまさしくこのような他人に対する気遣いが重要になってきているのであった。内部指向の子供たちは、他人が自分と違った趣味をもっているからといって、自分の趣味生活に自信を失うというようなことはない。むしろ、かれはかなり広い範囲内において尊敬を受ける。自分の趣味の個性を確認するのである。

 [他人指向型においては、]仲間よりもぬきんでていたり、あるいは仲間からちょっとはずれていたりする人間たちを、同じような鋳型にはめ込む努力...がおこなわれている。非常に幼い頃から、そしてだんだん大きくなっても人目にたつようなことをするのは最大の侮辱だという風に考えられる。内部指向時代において、不正直が悪徳であったのと同じように、人目に立つというのは現代における最大の悪徳なのである。尊大ということは、もはや許されない。

 癇癪をを起こすこと、あからさまな嫉妬を示すこと、移り気であること、これらも同輩集団の約束に照らしてみるとき罪悪感の中に数えられる。融通の利かない、あるいは風変わりな資質やそれらのもつ欠点は、多かれ少なかれ、排斥されたり、あるいは抑制されたりする。だが仲間集団が人間を判定する規準というのは、ようするに趣味の問題であるから、その判断の表現は恐ろしくぼんやりした形しかとれない。そしてその判定の仕方は常に変わる。例えば人間を形容する言葉として次のようなさまざまなことばが任意に使われるのである。いわく、かわいい cute 、きたない lousy、石頭 square、すてきな darling、いい奴 good guy、すてきな人 honey,すごい swell、ビッチ bitch (この言葉にははっきりした意味がない)等々。ソシオメトリーは、子供たちに、たとえば誰の隣に座りたいかとか、だれとは並びたくないとか、だれを友達にしたいとか、だれがリーダーになったらいいかとかいったような質問を浴びせかけるのであるが、そのような質問をしてみると、ここに述べたような判断の基準のあやふやなことがすぐに分かってくる。だが、表現は不確かだとはいえ、子供たちの判断はきわめて単純な趣味の系列の上におかれているわけだし、それによって子供たちはお互いに格付けしあっているわけなのだから、子供たちの下すこれらの判断は、一貫した尺度の上に有意味に位置づけることができるのである。

 さて、同輩集団の仲間たちが下す判断は趣味の問題である。...だが判断の基準が趣味の問題であるからといって、これらの判定を無視するということは子供たちにとってできない相談だ。...他人指向的な社会化のなかでの大人たちと同じく、仲間集団もたいへん友好的で寛容(他人の罪過をきびしくとがめだてしないこと。心が広く、他人の言動などをよく受け入れること。また、そのさま。)なのだ。仲間集団はいつでもフェア・プレーということを強調する。

 エチケットの訓練がどの程度まで消費者嗜好(引用者註:消費嗜好といったほうが良いかも知れない)の訓練に置き換えられてきたかを考えることは重要なことだ。...エチケットというのは人びとに近づく手段であると同時に人びとから一定の距離を保つための手段でもあったのである。...エチケットというのは緻密に段階づけられた社会的役割の代表者としての人間たちの交渉にかかわる問題だったのだ。

 他人指向的な人間の間では、このエチケットにかわって消費者嗜好の訓練が登場しているわけだが、この消費者嗜好というのはさまざまな年齢集団だの、社会的階級だのの間を結ぶ原理としてはあまり役に立たない。それは、同一年齢の同じ社会階層に属する仲間たちのいわば、陪審員室の中で役に立つものである。それが、子供であれ、大人であれ、現在の集団の中での議論というのは、たとえば、キャデラックがいいか、リンカーンがいいかといったような限界的特殊化の周辺での話題だ。別な集団では、そこで取り上げられるのが、フォードか、シボレーかといっただけの違いである。だが、いずれの場合でも大事なのは、他人の趣味をたえずかぎわける能力である。エチケットにあっては、丁寧で楽しい交歓が要求されたのだが、それに比べると他人指向型の付き合いというのは随分お節介な性質のものだ。もちろん、子供は仲間たちとつねに、その好みを交換しあったり、確かめあったりしているわけでない。こうした交流というのは、実際のところ、さまざまな品物についての噂話であるにすぎぬ。しかしながら、ある種の情緒的エネルギー、ないしは興奮さえもがこうした交流にある。まず第1に、他人指向的な人間というのは、「他人」の短期的な趣味に強い興味を示す。...第2に、他人指向型の子供は友達とこのような交流をもつことによって自分のレーダー装置が間違いなく作動しているかどうかを確かめるものなのである。

 ...一般的にいって、流行のプロセスは、だんだん多くの階級に広がってきたし、そのスピードもだんだん速くなってきた。初期的人口減退の局面では、レジャー経済が重要なものとなってくるのだが、そこでは、所得や商品の分配における流通機構が著しく整備されてくる。そして流行の移り変わりを早めることも、そこでは可能だし、またほんの小さな違いによって商品を特殊化することも可能だ。なぜなら、大量生産と大量流通の後期の段階にあっては、たんに商品の量を増やすというだけでなく、その質的な違いをたくさん用意することが必要になってくるし、またそれを許すだけの余裕が出てくるからである。それは、限界特殊化についての独占的な努力の結果だとみてとることも出来ようが、それだけではなく、様々な商品のデザインや生産や、分配をたちどころに可能にするような機械や、組織が出来上がっているからである。(問 佐伯啓思ではどのように指摘しているか?)

 ということは、とりもなおさず、今日の消費者は工業化の初期の段階における消費者たちよりもはるかに、多くのものを学ばなければならない、ということを意味する。たとえば、アメリカを訪ねてくる外国人は、おそらく、デパートの売り子も、上流社会の婦人も、映画俳優もみんな同じような服装をしているということに気づくであろう。...しかし、アメリカ人の眼からみれば、このような観察は間違いである。...まったく同じように見えながらも、小さな質的な違いが実際には存在しているからである。例えば、上流階級の服装というのは、しばしば気どらない風を装うものだし、また労働者階級の衣装というのはこれに反して、格式張った風を装っていたりする。

 他人指向型の子供にとっては、高度な個人的な才能を開発することは、きわめて難しい。そこで与えられている基準はあまりに高すぎる(玄人的判断力)。そして、みずから一人前にしてゆくためのプライベートな時間はほとんどない。

 今日の社会で人気を得るためには、適当な音楽的好みを表現する能力のほうが、楽器を上手に演奏する能力より大事なことである。...レコードを集めることによって、ティーン・エイジャーは自分の属する集団への帰属の感情を持つことが出来るし、また、最新流行のメロディーを口ずさむということがその子供の人気を確保する手段なのである。...さまざまな曲は自分の仲間を意味する。

 たんに趣味を交換するという段階から一段上に存在しているのが、オピニオン・リーダーとよばれる人間たちである。かれらは陪審員たちの票決に影響を与え、またその票決を繰り返させようという人間たちだ。実際は、その手続きは危なっかしいものである。だが、この危険を極小化する方法が一つある。それはすでに述べた限界特殊化の範囲内で活動するということだ。...特定の地域の、特定の階層に属するそれぞれの年齢集団は、それぞれに異なった音楽的指向をもっている。...このような一般的傾向の範囲内で、女の子はたとえば、ヴァーン・モンローに首っ丈だとか、ペリー・コモこそ最高だとか話し合うのである。そして、もしも彼女が熱心に、そして詳細にこれらの歌手について自分の意見を口にするとすれば、それは彼女がオピニオン・リーダーであるという証拠である。大多数の若者たちは、音楽に関してとりたてて強い好みも示さなければ、極端にある音楽が嫌いだともいわない。たかだか、かれらは大雑把な音楽の分け方、音楽の好み、例えば、ホット・ジャズとか、ヒルビリーとかいったものに対して全体として強い反応を持つのが関の山である。これらの意見をはっきり表明しない人間たちは、オピニオン・フォロワーズ(意見の追随者)である。かれらは限界的特殊化を行う能力さえ、めったに持っていない。
 他人指向的人間のおびただしいエネルギーは、無限に拡がりつつある消費のフロンティアに流れ込んでいく。

 現代の社会にあるものは、他人指向型の人間が、仲間から受け取る変動きわまりなき趣味による消費なのだ。さらに、かつて内部指向的社会にあっては、人びとは自分の欲求を満足させるために、一心不乱に働いたが、それらの欲求の多くは、今日では比較的容易に満足させられるようになってきている。...しかし、ある種の渇望が残っている。それは他人が達成しているかのように見える満足であり、対象のない渇望(強く願望すること)である。(問 佐伯の対応する箇所を見つけよ)今日の消費者というのは、その潜在的個性の大部分を、消費者同盟の一員になることによって失いかけているようだ。かれの消費は一定限度内に限られている。それは目標追求の原理によるのではなく、まさに他人指向の原理によるものなのだ。あまり多くを消費しすぎて、他人の羨望の的になるということを避け、あまりに少ない消費で、かれが他人の羨望の眼差しで見なければならないようなことも避ける。

(9)《他人指向型の物語読解》かれは、物語の結末をまず先に読んだりする。そして、物語の中で展開されてゆく成長の問題などには関心を払わない。結果がどうなるのか、それについての手がかりを含まないような部分は、読み飛ばしてしまうのである。その主人公と子供の間の同一感はもはや消滅している。...人物たちというよりはむしろ冒険であり、機械的な精密さであった。...その読者は他人が勝利をおさめるのを見て楽しんでいるという役割を受け持つことになる。そういう読み方をする子供はいわば、競馬の馬券を買う大人と同じような役割に身をゆだねている。...読者と主人公の間に成り立つ同一視の内容はだんだん貧弱なものとなって、結局、主人公が勝つという事実だけで読者は満足するようになった。
「機関車ヒョーヒョー号」

(10)《自己操作・他人操作》富に到る方法は、自分自身を操作することによって達成されると考えられはじめた。いわば一種の経済的な自己暗示主義のごときものだ。...代表的婦人雑誌の物語や読み物、広告は、他人を操作するために自分自身を操作するという生き方を扱っているのである。そしてその目標とするところは、例えば愛情といった眼に見えない価値なのだ。p136-137

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R.L.メイヤーとE.C.バーン・フィールドの書評
他人指向型の社会での自律的人間
かれに与えられている驚くべき大量の情報、ならびにかれが使うことのできる敏速な行動と、比較的歪みの少ない諸制度によって非常に多くの影響をうけるに違いない。かれが機械に対して持つ関係は、奴隷としての関係ではなく、むしろデザイナーないし診断係としてのそれである。彼のもつ論理は多値論理学であって、それはしばしば具体的な統計的公式を伴うであろう。そして確率論的に条件が等しい限り、かれは、自発的にその一つを選択する。かれの忠誠心はそれほどはげしいものではないだろう。しかしながら、理想としての国際主義は、かれにとってアピールを持つ。想像力による遊びはきわめて多様なものとなるにちがいない。(今日における空想科学小説の流行はその兆候である。)道徳的に言えば、かれらは好奇心に満ちていて、プラグマティックである。しかしながら、不運な状況におかれると、かれは反社会的な行動をとるようになるだろう。従って、罪の意識はその原因が突き止められれば、完全に説明しつくされると言うことになる。しかしながら、反社会的な行動だけは、これらの独立した人間たちにとって、よくないこととして残されるに違いない。社会的によいこととしてお互い同士、認めあったものは依然として神聖であることはやめないであろう。
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伝統指向型 内部指向型 他人指向型 製品差 官僚制と官僚主義 新中産階級、旧中産階級 オピニオン・リーダー フォローアー 限界的特殊化 他人指向型の自律的人間 消費のフロンティア 内部のフロンティア 同調 フロンティア 趣味


リースマン自身の『孤独な群衆』補充
1969 PREFACE xiv(Riesman,D. 1989 The lonely crowd. Yale University Press)
 現在のアメリカ人がヨリ同調的ということはない。また、今日のアメリカ人が他人に印象づけようとしたり他人から好かれようとしている点で特別だということもない。《違いは他人とのより大きい共鳴性、人との関係においての自己意識の高まり、人が接触を続けたいとのぞむ人々のサークルが広がっていることにある。》大人の権威と古い世代の代表性が正統的でなくなってきたのにつれて、若い人と若くあり続けたいとする大衆が現代の権力を対人的にも、マスメディアをとおしても出しゃばっている(露出している)。注意の焦点は抵抗や非同調に集まるが、問題点はまず共鳴の程度であり、同調(の程度)ではない。
...。技術や価値の急速な変化を反映して、大人の間において内的確信の喪失が世界中の現象となった。マーガレット・ミードは母国としてうまれたアメリカの親たちが若者の国の移民と感じているとかつて言った。若者は大人の正統性の喪失に対し、自己不信と混乱と反抗をより大きくして反応した。
 内部指向から他人指向への推定した移行が中産階級の上層のアメリカ人の社会的性格を描くスキーマとしてもやはベストでないこの時でも、この特性の普遍的次元は重要なものとして残っている。多くの若者が現在衝動指向または環境指向のように思えるが、それは数十年前同じ社会階層でそうであったことをはるかに超えてしまっている。どの国でも−アメリカでさえも−一度にすべてが変わるわけでない。『孤独な群衆』の中の現代の社会的性格について言ったことの多くは、まだ今日的意義があるとわたしは思う。しかしもっと重要なことは、社会的性格それ自身の問題について研究を続けることである。
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問 次の説明は平凡社マイペディアの他人志向型=外部志向型の説明である。間違っている部分を指摘せよ。
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外部志向型
リースマンが大衆社会に典型的な人間類型を言い表わすために用いた用語。信念良心などの内的権威を行動の準則とする内部志向型の対概念。他者(仲間・友人・世論・マスメディアなど)に対して過度な同調性・適応性を示す人間のことをいう。

伝統指向型および他人指向型と日本人論について

 「伝統指向型の人間は、他人たちから信号を受け取る。しかし、かれらの文化は単調である。だから、かれは信号を受け取るにあたって、別段、複雑な受信装置を、必要としない。」というリースマンの記述がある。

山本七平『比較文化論の試み』講談社学術文庫 1976 p20-
 先生が若いころ下宿していた家のご老人は非常に親切な方で、ヒヨコを飼っていたのですが、冬あまりに寒かろうといってお湯を飲ませたところがみんな死んでしまったという。先生は「君、笑ってはいけない。これが日本人の親切だ」、といっておられますが、これがですね、まさに日本的親切なんです。独りよがりなんですね。ヒヨコぐらいですとまだいいんですが、新聞の記事に保育器の中の赤ちゃんが寒かろうといってカイロを入れて殺してしまって裁判ざたになったという悲しい例もある。
 学問的に言いますと、こういうのは感情移入と言うんです。自分の感情を相手に移入してしまう。そこにいるのは相手じゃなくて自分なんです。...これはですね、自分の感情を充足するための行為と、相手に同情するっていうことに、区別がつかないからなんです。...
...フィリピン人が言うには、日本人というのはアジアの解放とかなんとか言ってやってきたが、だれ一人「あなたたちのために私たちが何かできることがありますか」と聞いた人間はいないというんです。

問 日本の社会学者(1960年頃)は日本を伝統指向型ではなく、他人指向型といっているが、果たしてそれでいいのだろうか。下に引用している『20世紀どんな時代だったか』においてもリースマン氏の下にいたグレン・フクシマ氏が同じく日本人のを他人指向型としている。

上の文章と役所的な意思決定法つまり「前例を重視する」ということなどを考慮せよ。

1999年のリースマンの考え

読売新聞社編『20世紀どんな時代だったのか 思想・科学編』読売新聞社 1999 p24-25

「米国は我々が予測したほどは消費社会になりきっていない。シリコンバレー(マルチメディア産業)を見れば生産社会がまだ強く息づいていることがわかる。この点で我々の予測には誇張があった」。リースマン氏はそう語りながらも,「我々が行った類型化はいまでも通用する」と自信を見せる。

 「他人に関心を示すことで,思いやりや寛容の精神をはぐくむ。一方で道徳的な葛藤に関心をあまり示さない」と規定された「他人指向型」社会は,クリントン大統領の不倫もみ消し疑惑に対する米国民の反応に表れている,とリースマン氏は言う。国民の多くが大統領を支持したことを共著者の社会学者ネーサン・グレーザー氏(76)は指摘する。

 「我々が提示したのは暫定的な考え方だった」(リースマン氏),「読者は律儀に自分たちの社会に類型化をあてはめようとした。(類型化は)えいやーといった調子でやや冒険的ところもあった」(グレーザー氏)というが,「他人指向型が米国の主導権を握る」という予測はすでに現実のものとなった。

 『孤独な群衆』が書かれた後,米社会では女性,黒人といったマイノリティーの社会進出,テレビの普及という大きな変化があった。リースマン氏らは60年代の公民権運動や女権拡張運動を予測していなかったが,著書の中で,「他人指向型」が持つ多様性や寛容度に温かい目を向けている。社会の大きなうねりを無意識に見通していたのかもしれない。
他人指向・内部指向尺度(36項目):
Kassarjian, W. M. (1962). A study of Riesman's thory of social character. Sociometry, 25, 213-230.
加藤秀俊氏がリースマンの分類を日本に適用した例が 10年後の日本の経済社会
にある.1965年のものであるがなかなか面白いことをいっている.ただ,日本が当時他人指向型という分析は納得しない.物質主義にすでに言及しているところが彼らしい.
堀 啓造(home page)
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