手塚治虫『火の鳥』


堀 啓造(香川大学経済学部)
2003/05/19

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最終更新日:
あらすじはこちら http://ja.tezuka.co.jp/manga/sakuhin/m057/m057_01.html
あらすじおよびバージョン間の異同はこちら。  http://www.bekkoame.ne.jp/~takeboh/hinotori/

  • テーマ
  • 永遠の生命
  • 思考停止
  • 『火の鳥』は完結していた!!
  • 人間とロボットの境界─人間の尊厳
  • 輪廻
  • ポジティブに表現すると
  • 生きがい


  • 書き残している項目
    戦前戦中の天皇中心の史観に対する反論
    など

     

    テーマ

    「第1部の黎明編のつぎは未来編となります。私は新しいこころみとして,一本の長い物語をはじめからと終わりから描き始めるという冒険をしてみたかったのです。そして,その次の話は,またも古代に移って黎明編のあとの時代の話となります。こうして交互に描いていきながら,最後には未来と過去の結ぶ点,つまり現在を描くことで終わるのです。」
    「したがって,そのひとつひとつの話は,てんでんばらばらでまったく関連がないようにみえますが,最後にひとつにつながってみたときに,はじめてすべての話が,じつは長い物語の一部にすぎなかったということがわかるしくみになっています。なぜなら,にんげんの歴史に,くぎりや断層があるわけがないからです。そのつなぎの役をするのが,狂言まわしの火の鳥ということになっています。」
    「おのおののエピソードは,どれも生命というものを,さまざまなみかたから描いて問題を定義するようにしました。」
    と手塚先生が明確にテーマおよび制作スケジュールについて語っている。
     また,講談社全集にも英文の解説がある。朝日ソノラマからでているシリーズでも本人が解説をしている。という意味ではなにもいうこともなさそうだが。

    過去と未来をはっきり対にして描いている。「黎明編」「未来編」はそれが明確である。「太陽編」では一つの中に過去と未来を描いていてはっきり見せようとしている。「太陽編」では権力者と宗教の問題。これは,宗教国でないはずの国の狂信者(というか原理主義者か)と宗教国のはずなのに宗教にクールなそれぞれの2人の大統領(ひとりは元になっている)を見ると結構面白い。

    「黎明編」「未来編」はテーマが明瞭である。「黎明編」では言葉ではなく,作品のなかでそのテーマを何度も繰り返す。そういうタイプの変奏曲である。「未来編」はことばで明瞭にいってしまっている。「黎明編」の変奏曲になっている。ことばでいっている分だけ,地球生命・宇宙生命というところまで拡大している。2つとも,永遠の命とは個体の永遠の命ではなく種としての永遠の命であることをいっている。「未来編」では「黎明編」のような部族レベルから人類という種に広げ,さらに地球生命,宇宙生命といっている。それはある個体がいきつづけることではなく生命の連鎖があることである。
     

    永遠の生命

    個体が長生きしようとすることをヒミコやその後の平清盛などで語られる。そして実際に個体が永遠の生命をもつということがどういうことか,「未来編」で示している。一人だけ長生きしてもむなしいだけで,関係性が必要だということか。

    「未来編」では直線的時間観の永遠である。「春夏秋冬」のようにループする時間観の永遠を描いたのが「異形編」「宇宙編」である。
     

    思考停止

    対位法としてというか別のテーマとして,思考停止の問題がある。ヒミコのように巫女に政治を任せる,コンピュータに政治(意思決定)を任せるという問題。この点も「未来編」ではことばで語っている。

    そこで,そのもっとも忠実なもの「猿田彦」(黎明編))「ロック」(未来編)が従うべきものを裏切る。猿田彦は愛すべき人格としてあるが,ロックはそうではない。しかし,もっとも忠実なものが裏切らざるを得ない情況になるのは同じ構造だ。

    というふうに考えれば,もっと対応をつけているようでもある。『火の鳥』はこのような仕掛けがかなりある。その仕掛けがもっとも見えやすいのは「黎明編」「未来編」であろう。
    おそらく構造主義関連のなにかを踏まえているのだろう。
     

    『火の鳥』は完結していた

    「太陽編」は現代かもしれない。
    http://ja.tezuka.co.jp/manga/sakuhin/m106/m106_01.html においては「 7世紀の日本と、21世紀の未来」とあります。「1999年だった 今から10年前のことだ」(講談社全集『火の鳥15』p88)といってました。2009年という設定ですね。出版からおよそ20年後です。
    火の鳥「ここはあなたの生きている世界から千年あまりもあとの世界です」
    とあり,白鳳時代の7世紀後半から千年あまりとは? 680+1000=1680 ですから,1980 あたりはかろうじて「あまり」に入れてもいい範囲。21世紀に入ってしまった現在においては,21世紀でも別にいいけど。それは未来というよりも現代として描いていると考えていい。
    とすれば,『火の鳥』は完結していた。「太陽編」の自動車やヘリコプター,建物なんかも現代です。オオカミ面のテープで洗脳するのなんかも雑なやり方です。未来的でない。発表年からして,ジョージ・オーウェル『1984』を踏まえていたのかな。あれよりも淡泊な洗脳法です。結局洗脳に失敗している。
     「太陽編」を現代とすると,あのとってつけたような結末もなんとか納得出来るのでは。
     つまり,輪廻転生から解放されて成仏している。涅槃といっていいのか。平凡社世界百科大事典によると,仏教では「無明(むみよう)(無知)と愛執(あいしゆう)によって輪廻が生じ,それを絶ち切ることによって涅槃(ねはん)や解脱(げだつ)が得られると説かれた」。天上にいることになるのか。(平凡社世界百科大事典「この輪廻のことをとくに〈六道輪廻〉(六道)と呼び,死後の迷いの世界を地獄,餓鬼,畜生,修羅,人間,天上の六つの生き方(転生)に分けて整理した。」)。それとも天上も輪廻するのかがよくわからない。
     いずれにしても上がりを「太陽編」では書いているのである。
     ところで,手塚先生はいつ病気について分かったのだろう? 雑誌連載時のものは知らないけど,角川ハードカバー版の出版時には知っていたのだろうか。と思わせる,手塚先生らしくない結末のように思える。
     『火の鳥』が完結していないというものは,http://ja.tezuka.co.jp/manga/sakuhin/m106/m106_01.htmlの解説にもある「ミュージカル用の原案として「大地編」というシノプシスを書き残してい」ることを大きな根拠にしている。角川文庫版の第12巻の村上知彦氏が解説で書いている。

    これらのことを少しまとめて書くと次のようになる。


    初期の構想は別として,やはり「太陽編」で完結させたのではないでしょうか。
    (1)なんせ輪廻転生がおわり,涅槃しちゃったのだから。

    (2)火の鳥の予言と実際の起こった年の間に現代が入るので,誤差の範囲で現代と思われます。

    (3)書き上げた時期からいって,自分の死について意識していた可能性はかなりあります。そういう意味で終わらせたと思われます。

    「ミュージカル用の原案として「大地編」というシノプシスを書き残してい」るという点に関しては,映画などほかのメディアと雑誌連載は別物扱いをすることが通常です。同時進行のものでさえ随分違うものに仕上がっています。『鉄腕アトム』だと,アニメで新しく作ったものを雑誌では発表していません。

    また,手塚治虫にこういう構想があったとよく言われますが,構想を作品と考えたら手塚治虫全集は400冊ではなく,1万冊くらいになったかもわかりません。結果から解釈するのが正しい姿でしょう。物語はいくらでも頭に浮かぶ方です。その点のすばらしさは多くの人が指摘しています。しかもそれを描くとさらにすばらしいものになっているというのも指摘されている点です。

    もう一つ
    ブラックジャック 『しめくくり』秋田書店 少年チャンピオンコミックス17 第163話 あらすじはこちらに。http://www.phoenix.to/78/78-15.html

    人気作家が病院に入院し,死の間際にあって,クライマックスまで書いて,完成させていないベストセラーを完結させるために,手術後完結させるまで生かせてくれと頼む。そしてBJは結局手術をし,小説は完結する。

    ここで興味深いのは完結させる意志である。術後死ぬまでの時間を病院の中で懸命に書く。これは手塚先生52才頃の作品だが,先生の最後を思い起こさせるではないか。
    そこで,『火の鳥』は完結させたと考えてあげようよ。やすらかに眠ってください。
     

    人間とロボットの境界─人間の尊厳


    『火の鳥』の「復活編」と「生命編」は似たテーマを扱ってます。
    「生命編」のほうが素直です。人間のクローンに尊厳があるのかというテーマ。ここでは尊厳はないものとして扱われてます。『人間ども集まれ』でも見られるテーマです。
     「復活編」ではひねってあって,人間の混じったロボット=ロビタに尊厳があるかというテーマ。ロビタは尊厳を持っているとして扱われてます。
     「復活編」ではどの程度人間の機能を置き換えても人間として扱われるかという問題。大胆に脳の一部まで置き換えてしまいます。そしてロボットのほうに親和感をもつのです。
     「生命編」ではゴキブリの足を詰まらせた人が脳以外を置き換えているが人間として扱われ,人間のクローンは人間として扱われないという対照を示してます。
     2つの作品ともどこまで人間,どこからロボットの問題。さらにコピーはどう扱うかの問題がテーマになってます。どこから生命を持つと言えるのかということなのかな。
     ところで,ロビタから今回のアニメ鉄腕アトムの年代を割り出すと,2917-3030の間ということになります。
     

    輪廻

    4種類の「望郷編」というのが,http://www.bekkoame.ne.jp/~takeboh/hinotori/4nostalgia.htmlにあって,それぞれのバージョンによって違っているところを指摘してある。(com版望郷編が『手塚治虫COVER[タナトス編]』徳間デュアル文庫 に入ってます http://www.bekkoame.ne.jp/~takeboh/hinotori/comnostalgia.htmlに解説あり)

    「乱世編」についてはまだ書かれていない。
    雑誌掲載版はないのでわからないが,手塚先生自身が,雑誌掲載版の最後をかなり修正したことを述べている。

    さて,細かく比較する気力と時間が今ないが,角川版(角川文庫)と講談社全集版,マンガ少年別冊版とは大きく違っている。

    赤兵衛,白兵衛の話が変わっている。最後の赤兵衛,白兵衛の話はカットされた。最初のほうの赤兵衛,白兵衛の話も大幅に省略されている。そして,赤兵衛,白兵衛が戦う理由が,輪廻転生から業に変わっている。幕のタイトルを付ける点も違っている。結果として,弁太の話が最後になるが,その後の弁太の位置づけなど変わっている。わたしとしては角川版のほうが好き。

    講談社全集版,マンガ少年別冊版では,マンガ少年別冊版では最初の赤兵衛,白兵衛の話にでてくる,墓の形が丸っこくなっている。だいぶ時間がたっていることをしめしている。また,マンガ少年別冊版でな,「輪廻転生」のよみがなが「りんねてんせい」となっている。校正がちゃんとできていない。今刊行しているシリーズがどうなるか楽しみ。

    火の鳥の輪廻はニーチェの永遠回帰のような気もする。どちらもあやふやな理解だから自信をもっていえない。ニーチェは仏教の影響も受けてるし。『ニーチェ事典』(弘文堂)によると,永遠回帰と輪廻,業と結びついていると考える人もいるようですね。

    ただ,手塚先生の輪廻観の変化は考えてもよさそう。最初は「子孫」て行ってた部分が輪廻に変わっているようだし。輪廻を時間を超えたものとしてとらえているし。そのあたりはよく知っている人に解明してもらおう。
     

    ポジティブに表現すると

    『火の鳥』の中で「ヤマト編」は異色である。火の鳥から血を得ているが、火の鳥をやっつけたりとらえたわけではない。笛を吹いて火の鳥と共鳴しあえたからである。つまり、火の鳥の血を得るのは暴力によってはなく平和ななかで得ている。目的を達するために暴力的である必然性はないのである。

    その平和のなかで何をなすのか。「生きがい」を見つけることである。クマソの川上タケルは「クマソの王として正しい日本の歴史 正しい日本の姿を書いて残」(p23)すことでありやり遂げている。

    オグナは川上タケルを殺した後、従来にない王の墓作りに生きがいを見いだした。そしてその墓に生き埋めにされることになって、そういうことをやめさせることに生きがい(死がいいを見いだしている。最後の生きがいは無抵抗主義である。非暴力である。この点も抵抗のあり方を示したものであろう。

    「望郷編」もある意味でポジティブに描いている。善良な世界を作り出している。しかし、その善良な世界があっという間に悪意が蔓延する世界に変化してしまう。善良なだけでの理想郷というのがもろいものであることを示している。悪意に抵抗力のある社会を作って以下なければ持続できないのである。手塚治虫の現実主義をのぞき見ることができる作品である。

     

    生きがい

    でなんで生きてるの。「ヤマト編」で「生きがい」という指摘をしている。これはトートロジーになるんだけどまあいい。「生きがい」というのは神谷美恵子(「生きがいについて」)が使いはじめたことばだそうだ。
    http://webcatplus.nii.ac.jp/tosho.cgi?mode=tosho&NCID=BN0029053X
    日本語から始まったことば。加藤秀俊がリースマンの『何のための豊かさ』のなかで「生きがい」ということばを使っているが,もとはchallenge (search for challenge)で,日米の違いがわかる訳し方だ。
     

    コンビニ本「黎明編」の80頁にオオカミが大量に登場するシーンがある。歌舞伎型とか赤塚不二夫型とか遊んでいるところ。これにファミコン型というのがある,当然ながら講談社全集ではグランプリ型とかでファミコンにはなっていない。

    「アキツが原」(黎明編P79)ということばがでてきます。このことば橋本治が辞典を選ぶときに問題にしていたことばです。広辞苑だと「あきず」を基本にしているけど,「あきづ」が基本だといってます。広辞苑では「あきず」の項に「平安以後アキツとも」とあります。大辞林は「あきつ」の項に古くは「あきづ」とあります。広辞苑を使うと「あきず」と書きそうですが,大辞林なら「あきづ」です。橋本治は大辞林のほうがいいとこ例外にもいくつか例をあげながら言ってます。さて,この時代からすると「あきつ」よりも「あきづ」のほうがよさそうです。広辞苑は新仮名遣いに忠実であろうとしているらしいです。

    ブラックジャックが「直木賞」または「山本周五郎賞」鉄腕アトムが「SF大賞」
    にたいして,火の鳥は純文学ですね。ノーベル文学賞級の作品でしょう。


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