Books 2001/01


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丸山眞男『忠誠と反逆−転形成期日本の精神史的位相』ちくま学芸文庫 (1998) つぎつぎなりゆくいきおい


丸山眞男『忠誠と反逆−転形成期日本の精神史的位相』ちくま学芸文庫 (1998) \1,400
1992年筑摩書房刊
目次
忠誠と反逆
幕末における視座の変革−佐久間象山の場合
開国
近代日本思想史における国家理性の問題
日本思想史における問答体の系譜−中江兆民『三酔人経論問答』の位置づけ
福沢・岡倉・内村−西欧化と知識人
歴史意識の「古層」
思想史の考え方について−類型・範囲・対象
あちこちで書いた論文集である。ここでは『歴史意識の「古層」』だけをとりあげる。
原論文は1972年発表。このテーマは東大の講義でも扱っていて,丸山眞男講義録[第六冊]日本政治思想史1966,[第七冊]日本政治思想史1967 を読めば,思索の発展もわかる。また,古文書の文章をいちいち挙げていないので,その考えがよくわかる。ちなみに,1967年の講義では,「なりゆく」「いきほひ」の2つであったが,この論文では「なる」「つぎ」「いきほひ」の3つになっている。

ここでは歴史意識だけであるが,1967年の講義では,倫理意識,政治意識も扱っている。

歴史意識といっているが,日本人の思考法や説得の仕方,新しい考えの取り入れ方(inovation)についても大いに参考となる。

日本の歴史意識の基底範疇には「なる」「つぎ」「いきほひ」の3つがあることを神話を初めとしていろいろな古典文献をひもといてあきらかにする。

《なる》
「なる」と対立させる考えは,「つくる」「うむ」である。「つくる」「うむ」「なる」に対応する宇宙創成論は次のようになる。
(イ)われわれの住む世界と万物は人格的創造者によって一定の目的でつくられた。
(ロ)それは神々の生殖行為でうまれた。
(ハ)それは世界に内在する神秘的な霊力(たとえばスラネシア神話でいうmana)の作用で具現化した。
(p360)
日本では「つくる」という意識は薄く,「なる」という意識が強い。「うむ」についてはある。

「つくる」はつくるものとつくられるものが主体と客体としてまったく非連続。「うむ」は連続性があるが,「Xが」「Aをうむ」とやはり「つくる」側にある。「なる」はそのような主体,客体がない。

「生・成・変・化・為・産・実」などが「なる」と訓ぜられている。なるの意味を考えるのに役立つ。

「古事記」神話の第2のクライマックスである天岩戸神話までの圧倒的多数が成神または化生神である。つまり,「うむ」論理はズルズルと「なる」発想にひきずられている(p369)。

有機物のおのずからなる発芽・生長・増殖のイメージとしての「なる」が「なりゆく」として歴史意識をも規定していることが,まさに問題なのである。(p372)

《つぎ》
「古事記」の国生みの開始から,イザナミの「神避」にいたるまでに47回「次」という字が用いられている。「日本書紀」でも多い。

「なる」と「つぎ」とによって表される歴史的範疇が,血統の連続的な増殖過程である。(p379)

「つぎ」「つぎつぎ」という時間的継起性の表象が一種の「固定観念」となって,芸術形式にまで高められた代表的な例として,日本の絵巻物,とくに,説話絵巻物。(p384) 右から左に順次くりひろげていく。それが事件の時間的継起を共有させる「異時同図」は日本で発展した形式。

「つぎつぎ」に象徴されるような世代ないし事件の線的な連続継起という観念は,……,歴史に劃期的な段階や転換期があるという認識を必ずしも排除しなかった(p385)

《いきほひ》
「いきほひ」に対応する漢字「気・胆気・威・威福・権・勢・権勢」
いきほひ→エネルギー
いきほひ=。いきほひのあるものに対する賛辞が徳。

記紀の共通の発想において,天と地とは空間的秩序のの形成というより,生命のエネルギーから大地・泥・砂・男女身体の具体的部分がつぎつぎとなりゆく過程の発想である。「初発」のエネルギーを推進力として「世界」がいくたびも噴射され,一方的に無限進行していく姿。(p392)

日本の歴史意識の歴史のなかでは,「なる」「つぎ」と化合しつつ,一種の歴史的オプティミズムの原点となる運命となった。とくに「いま」を中心の観念と結びつくとき,新たなる「なりゆき」の出発点としての「現在」(生る[なる]→現る[ある])はまさに不可測な巨大な運動量(モメント)をもった「天地初発」の場から,そのたびごとに未来へ向かっての行動のエネルギーを補給される可能性をはらむ。…それは−「天地の始は今日を初とする理(ことわり)あり」−に再現される。(p393-4)

ここで言っているオプティミズムがちょっと分かりにくい。1967年講義録では次のような説明がある。
p74
「なりゆく」=ますます生命が増殖するというオプティミズムがともなうから,「世の中の「なりゆき」が,一時的には不利に見えても,基本的には肯定され,なりゆきに任せる態度への傾斜が生まれる。…。歴史のなかに「タマ」=生命=エネルギーが宿り,それが内在的必然性をもって発展するという意味でのいわば勢いの必然史観。

p94-95
扇形増殖(註)の世代ごとの更新→全体としての扇形増殖
(註)
ここでは生まれるものが死ぬものより多い。…
簡単に言えば,ねずみ算式に増える。だから,例え,今自分一人となったとしても,将来はどんどん増えている。

「勢」が歴史的時間の推移に内在すると観念されるとき,そこに「時勢」あるいは「天下の大勢」という観念が,日本の歴史認識および価値判断においてきわめて流通度の高い範疇を形成する。(p397)
 時勢とか天下の大勢とかの概念には,時間の経過とともに一定の方向への「いきほひ」または「はずみ」=機がついていて,ある段階に達すると,その運動方向を転じさせたり,いわんやそれを逆流させたりすることが,もはやその時点では不可能になる,という認識が必ず含まれている。(p398)

けっして「勢」の盲目的必然をといたのではない。彼らはまさに彼等の実践的なリアリズムにふさわしく,人間の自由意思をこえた「運動量(モメンタム)」として時勢や情勢をとらえながらも,その方向を転轍すべき,タイミングの測定と決断の必要を力説していた。しかし,「時運」と同じような宿命のトーンが流れることが多く,時の「勢」は,時の「なりゆき」の客観主義的な認識の側面と合流する。(p399-400)

『日本政治思想史1967』から少し補っておく。「勢の必然史観」の話の展開として次のコメントがある。ここでは,楽観主義ではなく,ご都合主義をあげている。(p76)
もし正義の戦争だというなら戦後は不義の勝利した世界であり,あるべからざりし悪のはずである。論者はそうは主張していない。 こうして「なりゆき」と「いきほひ」の歴史像には,いわゆる状況追随的オポチュニスティック態度と,内なるエネルギーをしゃにむに奔騰させる主観(主情)的行動主義とのアンビヴァレントが存在するわけである。

《つぎつぎなりゆくいきほひ》
歴史における「価値判断排除」(!)の傾向は,しばしば実証主義的態度の名で呼ばれる。しかしこの「実証主義」のさらに内奥には,客観的な「なりゆき」のなかに内在している価値(霊[ひ])が自らを顕現させてゆくことへの楽観,ないしは「安心」が潜んでいる。(p409)

ところが「つぎつぎになりゆくいきほひ」の歴史的オプティミズムはどこまでも 生成増殖の)線型(リニアー)な継起であって,ここにはおよそ究極目標などというものではない。まさにそれゆえに,この古層は,進歩とではなく生物学をモデルとした無限の適応過程としての−しかも個体の目的意識的行動の産物でない−進化(evolution)の表象とは,奇妙にも相性があうことになる。p412-3

「進化」とは,「客観情勢」への適応過程であると同時に,歴史に内在する「いきほひ」=生産力の展開過程である(丸山,1998, p77)ことを理解しておかなければならない。
p413
こうして古層における歴史像の中核をなすのは過去でも未来でもなくて,「いま」にほかならない。われわれの歴史的オプティミズムは「いま」の尊重とワン・セットになっている。過去はそれ自体無限に遡及しうる生成であるから,それは「いま」の立地からはじめて具体的に位置づけられ,逆に「なる」と「うむ」の過程として観念から過去は不断にあらたに現在し,その意味で現在は全過去を代表する。こうして未来とはまさに,過去からのエネルギーを満載した「いま」の,「いま」からの「初発」にほかならない。未来のユートピアが歴史に目標と意味を与えるのでもなければ,はるかなる過去が歴史の規範となるわけでもない。……「今も今も」は,たえず動きゆく瞬間瞬間を意味しながら,同時にそれが将来の永遠性の表象と結びついている点で,まことに日本的な「永遠の今」−ヨリ正確には「今の永遠」−を典型的に示すものである。

 したがって血縁的系譜の連続性に対する高い評価にしても,……むしろ赤子(あかご)の誕生の祝福に具体化される。生誕直後の赤子は「なりゆく」霊(ひ)のポテンシャリティが最大であるだけでなく,キヨキココロ,アカキココロという倫理的価値意識の古層から見ても,もっとも純粋な無垢性を表現しているからである。
「天つ神・国つ神」の非究極性と不特定性が「いま」の立場から「自由に」祖霊を呼び出すことを容易にし,しかも新たなる変革や適応を,こうした「原初」の顕現として連続的にとらえる,という特異な思考様式がこうして可能になる。(p414)

「初発」の混沌から再出発というイメージによって,当時(つまり「いま」)の外国文明をモデルとした変革は,スムーズに(!)天つ神の「事依さし」と連結させられたのである。(p416)→大化改新,明治維新

時・処・位の名における具体性・現実性の尊重という近世思想史の漸強過程

「なりゆき」と「いきほひ」の範疇が,政治的態度において,一方では「今の世はいまのみのりをかしこ」む(宣長)受動的服従の側面と,他方では「勢いに乗じ」たエネルギッシュな,しかも「無二無三」の能動的実践の側面とを,ともに内包していた。(前の引用も参照

日本の歴史意識の「古層」において,そうした永遠者の位置を占めて来たのは,系譜的連続における無窮性であり,そこに日本型の「永遠の今」が構成された。(p422)

丸山の示す,歴史意識の古層は必ずしも歴史だけのことではなく,世界の見方でもあるだろう。学生に論文を書かせると,「つぎに」「そして」という言葉がよく使われる。もっと非論理的な「また」も頻出語である。「論理的に書くように」ということばはまったく伝わらない。「論理的」ということばがわからない。「つぎ」という言葉はきわめて重要な用語になっていることはわかる。これをよく使うのは,小学校の作文のためだろうと思っていたが,意外と根深いものがあるのかもしれない。

作文の世界だけでなく,学問のほうでも「今これがハヤリだ」「もう古い」などということが決定的評価になったりする。論理的に考えない,じっくり熟成させないというところがある。しかし,マーケティングの世界では米国は昔の考えをすぐにすてほとんど振り返らない。たえず新しい考えを求め,それが過去にあった考えとほとんど同じでも新しいというだけで受け売りをしている。ということで,日本だけのなのかなという疑問はある。そのあたり,丸山は歴史意識に限定しているのがうまいのかもしれない。

「いきほひ」を中心とする「つぎつぎなりゆくいきほひ」は鈴木(1996)のいう「生命主義」と関連する。ずっと前からあった考えだったんですね。

鈴木貞美(1996)『「生命」で読む日本近代---大正生命主義の誕生と展開』NHKブックス。
丸山はこのような論考をナショナリズムの実践として行ったのだろうか。これまでに引用したところで明らかだが,逆に「近代」の無力さを思い知ったというところであろう。理性の通用しない歴史意識であり,あくまで勝てば官軍なのである。

丸山は「むすびに代えて」において将来への展望のようなことを行っている。
ところで,家系(いえ)の無窮な連続ということが,われわれの生活意識のなかで占める比重は,現代ではもはや到底昔日の談ではない。しかも経験的な人間行動・社会関係を律する見えざる「道理の感覚」が拘束力を著しく喪失したとき,もともと歴史的相対主義の繁茂に有利なわれわれの土壌は,「なりゆき」の流動性と「つぎつぎ」の推移との底知れない泥沼に化するかもしれない。現に,「いま」の感覚はあらゆる「理念」への錨づけからとき放たれて,うつろい行く瞬間の享受としてだけ,宣命のいう「中今」への賛歌がひびきつづけているように見える。(p423-424)

なお,文庫本の解説もなかなか力作である。

《文献》
丸山眞男(1998).『丸山眞男講義録[第七冊]日本政治思想史1967 東京大学出版会
丸山眞男(2000).『丸山眞男講義録[第六冊]日本政治思想史1966 東京大学出版会
(日本政治思想史1964〜1967の4冊の索引は[第六冊]にある。)

P.S.
《うち・そと》
丸山(2000) にはうちそとを考える,(1)日本と「外国」という二分法,(2)土着 対 外来,(3)内発 対 外発 という論考があり,参考になる。内発は日本内に起源をもつということ。

《悪》
丸山(2000,p55)の倫理意識の原型において,政治家のミソギがなぜ意味をもつのかわかる説明がある。
キヨメ,ハラヒの対象が災厄(外からのツミ)のみでなく,人格的な罪をも含んでいる点に,吉凶観と善悪観の重畳性がみられる。……。しかし,逆に言えば,内面的なるべき悪も,ケガレと同様に,「外」から[demon の作用が]付着したものであり,したがって,ミソギによって洗い流すことができる。
これと赤子の無垢性をあわせると赤ん坊がいかに純粋無垢であると考えられているかわかる。

また,ハラヒ・ミソギによって,隔離することがキヨメることになる。
《状況的》(丸山,1998, p60-61)
災厄福祉観にもとづく価値基準は,必然的にsituational [状況的]である。
 呪術の世界にはそれぞれのsituation [場] に,それぞれの精霊が内在している。かまどの神とか,へっついの神とか,厠の神とかいう表象をみよ。だから,特定の場に特定の祭儀が対応することになり,祭儀自体が多様性をもつ。いいかえれば「聖なるもの」が多様であって,場に応じて使い分けられることになる。これは神々が一定の序列を構成して一つの序列を構成して一つの秩序を(パンテオン)をなしているという意味での多神教とは異なる。……。
 これが日常行動(俗的)の次元に翻訳されると,「場」に応じた行動様式の使い分けとなる。一定の場に対応した一定の行動様式があり,異なった場にはまた異なった行動様式がある。……。同じ人間が「場」によって,あるいは属する集団によって行動基準を異にしてもそれが同一人格の行動であると見られないかぎりは,人格のintegrity [統合性] ,したがって人格的責任が問われるはずがない。
逆に,ある共同体にとっての福祉と災厄という基準は,共同体の成員にとって大きな拘束力をもち,その共同体のタブーの侵害ににたいする責任がきびしく追及される。それは災厄(外面性)と罪(内面性)が同一化されることになる(p61)。

こういうところから,員数主義が幅をきかせてしまったのだろうか?(ここに話を結びつけるには何段階かの仮定が必要だ)

《集団的功利主義》(丸山,2000, p29)(共同体功利主義)
自己の所属する共同体にとって外から利福をもとあらすものが善,災厄をもたらすものが悪という考え方。つまり特定共同体への禍福を基準に善と悪を判断する。個人が基準ではない。……,ここでは集団への奉仕から離れた個人的利益の追求は,…,厳に排斥される。……。特定集団にとっての相対的な功利が善悪の基準とされ,特定共同体を超えた絶対的倫理基準がない。
この考えは,東(1994)の取り上げている,「自発的役割人間」と通じるところがある。

自発的役割人間は, 選択の限られた状況を受容することで、役割が個人のアイデンティティの中に組み込まれ自発化する。
東洋『日本人のしつけと教育』東京大学出版会 1994

2001年1月17日記

追記 2001年2月6日
丸山眞男のサイトとして
冨田宏治氏@関学
下の方の論文


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