Books 1999/07


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ジョアン・フィンケルシュタイン(成美弘至)『ファッションの文化社会学』せりか書房(1998) ファッションへのジンメルから現在までの社会学アプローチ
松崎憲三編『人生の装飾法−民俗学の冒険2』ちくま新書(1999)装飾の民俗学


ジョアン・フィンケルシュタイン(成美弘至)『ファッションの文化社会学』せりか書房(1998.12.7) \1,500  213pp

(1)Finkelstein, J.(1996). After a fashion. Melbourne University Press.
(2)Finkelstein, J.(1998). Fashion: An introduction. NY: New York Uninvesity Press.

(1)の翻訳であるが,現在は(2)で出版されている。Amazon.com では(2)はすぐ来た。(1)がこないうちに(1)(2)が同等品であることに気づき(1)の注文をキャンセルした。
目次
1章 現代社会とファッション  (Introduction)
2章 ファッション論の系譜   (The elusive origins of fashion)
3章 衣服の意味を読むこと   (Speaking of fashion)
4章 自己をつくり上げる    (The fashioned self)
5章 ジェンダー・セックス・ショッピング (Gender shopping)
6章 生活の美学と身体の抑圧  (The look of fashion)
7章 メッセージとしてのドレス (Fashion sense)
8章 消費社会とモードの歴史  (Consuming fashion)
9章 反抗する都市のスタイル  (Fashion in the city)
ファッションについて社会学を中心にジンメル,ヴェブレンから現在までの理論的な知見をよくまとめてある。

ジンメル,ヴェブレンのあとはだいぶ飛んでボードリヤール,バルトなど。そして,
Wilson and Ash(eds.)(1992).Chic thrills. Unv. of California Press.
Benstock and Ferriss(eds.)(1994). On fashion. Rutgers Univ. Press.
Lipovetsky,G.(1994). The empire of fashion. Princeton Univ. Press.
を中心にしてうまく切り張りして,ファッションについて論じてられていることをまとめている。原著で本文 113頁と簡単に読むのに手頃な長さである。が,実際に読むのは骨が折れる文体なのでこの訳本はありがたい。

著者はカルチャル・スタディの講座を持っている社会学者ということで,心理を扱った部分はあるが,心理学の知見は一切ない。

特にジンメルの紹介はわかりやすい。また,全体に訳はこなれていて原文を読むよりわかりやすくなっている。そのための心配は少しある。 p132
アパレルメーカーのベネトンは,消費(purchase)に快楽,精神的充足,美的感動を求める新しい消費者心理(consumer mode)を完全に理解している。ベネトンはファッションの消費(fashion spending)を,新しい政治綱領として再定義し,その倫理は環境保護の願いに共感するだけでなく,反人種差別,反女性差別,国家や民族の誇りを求める地域政治にも賛同するのだ。ここでベネトンは政治的公正さと消費(consumer commodities)とを結びつけたが,…
( )内は原文対応語
消費の定義についてはここ。つまり,消費は買うことではない。英語が同じことを言い換えるにしても,これらの語すべてが消費なのは原意を損なってしまうし,わかりにくくしているのではないか。purchase を「購買」,fashion spending を「ファッションへの支出」,consumer commodities を「消費財」または「消費する物やサービス」といったほうが「消費」に多様な含みを持たせないでよりクリアな意味になる。

「4章自己をつくりあげる」が特に興味深かった。ここは主としてジンメルによるものである。 装身具を含む外見そのものが自己を表していることを説明している。また,それは身体管理でもある。
ジンメルによれば,ファッションの力によって人びとの考え方は拡張するのである。「装飾された身体はより多くを所有する」と彼はいう。というのも「私たちが自由に身体を装飾するとき,より多くのより高貴なものを持つことになる」からだ。それゆえ,彼の言葉をかりると,「個人が自由に身体を装飾できることはきわめて重要」なのである。なぜなら「装飾によって自己は拡大し,人格が占める領域も拡大する」からである。(p70)
 成形されることで身体はより多くを語り,他人の注目を集め,より豊かな意味とスタイルでその人を包み込む。装飾された身体はより複雑な自己をうつし出し,視覚にうったえて注目を集め,見られることでさらに自己を高めるのだ。おしゃれとは,現状を支配して,自己を宣伝したいという願望から生まれる。(p70)…


 したがってファッションによって知的レベルさえもはかられることになる。社会は変化によって進歩し,ファッションは変化の一つの形式であり,そしておしゃれな人はたえず自己を知的に再構築しているのだ。だから論理的にファッションには,個人の変化への適応力や許容力が反映されるだけでなく,社会の文明化のレベルと進歩への感受力も表現されるのだ。……。外見と生活様式におけるスタイルとファッションの多様性から,現在の文化が自由で,制約も少なく,より流動的な状況を享受しているという肯定的な議論である。(p71-72)
 …。いまやファッションは,人をあざむく手段となったのだ。それは人々を固定的な社会秩序におくかわりに,社会の中でさまざまな存在になりたいという欲求を実現してくれるのである。(p73)

 …。また,ファッションの大きな魅力は,自分をどう認識するのかという問いに答えてくれることである。すなわち「ファッションは,その内的構造を通して,個性が発現するように働きかける。それはつねにその人にふさわしく見えるものだ」。ファッションは個人を考える必要性から解放し,紋切り型や慣習によって守ってくれる。(p74-75)

…,ファッションは美意識や道徳の構造に影響するだけでなく,時代の嗜好性(テイスト)や行動をも変化させるのである。(p79)

欲望はファッションのごとく構造化されている。(p80)

…。スタイルによって,ある社会集団への所属を公式に声明することになるが,スタイルを自分のほしいままにするとき,それによって主体性に影響するファッションの力を行使することができる。そのときファッションは個人主義という倫理に役立つ。人々がどんな外見を選ぶか,自分が他人にどう見られたいかについて,成形された身体は,さまざまな社会的声明を主張する場所となる。身体を成形することによって,自己を成形する実践もまた可能となるのである。(p88)
実に魅力的な言説が並んでいる。ただ,この本では同じような言説が繰り返し現れる。このあたり,ジンメルの文体に似ているともいえる。その繰り返しの中での斉合性がどの程度あるか疑問もある。どちらかというと,魅力的な言説がいろいろ流れてはあらわれいでているという感じである。また,その言説が置かれる文脈も重要な意味をもっている。それ故,上の引用のように切り離してしまうと意味が大きくずれてしまうことにも注意を要する。

ファッションについて学問的に語ろうとするとき,参照すべき本であろう。英語版の(2)が入門とあるように,厳密に立証しようとする姿勢はこの本にはない。いろんな言説を自分のなかでどう統合し,どのように研究するかということが重要である。そういう意味で最初の一歩であろう。しかし,社会学はしんどい分野だ。
<類語>
fashion 一時代または集団の習慣・風俗・服装などを特徴づけるもの.
style fashion と時には同義であるが,流行の基準に合致していることも意味する:
(小学館 ランダムハウス英語辞典 windows版 version 1.1a)

ついでに同辞典から
after [or in] a [or some] fashion (話)どうにかこうにか,一応は,曲がりなりに,まずまず:
fashioned body/fashioned self については訳注に説明がある。
身体の成形・自己の成形=fashioned body/fashioned self。ここで使われるファッションとは衣服や流行のことではなく,「つくり出す」「変形する」という意味の動詞。フィンケルシュタインは著書『つくり出された自己(The Fashioned Self)』の中で,外見やファッションが社会的地位や階級の記号ではなくなった近代社会においては,外見が個人の人格と結びついてゆき,外見をつくり上げること(ファッション,化粧,ダイエット,整形手術など)がすなわち自己をつくり上げることになっていく過程を数々の事例から研究した(もの)。
なかなかおもしろそうですね。

訳で気になるところを1つ挙げます。(訳については一部をチェックしただけです。)
Even though fashion may seem a frivolity, it is highly signicant in the formation of modern consciousness. Some regard fashion as a measure of liberality, reflecting how well people respond to change, and how tolerant they are difference. Fashion is not just about categorising and ranking material culture; it also about the manipulation of desire, pleasure and the play of the imagination.
(本(2)のp37)
これを次のように訳している。
しばしば表層的と見られれているが,ファッションは近代の自己意識の形成に重要な役割をはたしてきたのである。服装をみれば,その人がどれくらい変化に柔軟で,差異を認める心の持ち主かわかるので,社会的な許容力をはかる尺度ともなる。その一方で,ファッションは商品を分類し位置づけたり,願望,快楽,空想の楽しみとたわむれることでもある。
仮訳
「ファッションは浅薄なものと思われていますが,近代意識を形成する上で特に重要な役割を果たしています。人がどれくらい変化に対応し,そしてどのくらい違いに寛容かを示すものとなるので,自由主義(liberality この訳語は?)の尺度と見なしている人たちもいます。ファッションは物質文化を分類し,順序づけたりするばかりでなく,欲望と快楽を操作し,想像力をたくましくするものです。」というような感じではないかな。

1文目のmodern consciousness と2文目のliberalityとを対応させています。ただ,liberalityには寛容の意味もあるので,進歩主義ではやりすぎですが,自由主義と訳してもわかりません。英語を英語でかえる,リベラリズムがいいのかな?。3文目は not only... but also... の変形という解釈。また,「物質文化」ということで「物質主義」への連想を喚起し,物質主義に対する揶揄をしているものとなっているのでしょう。それにつけても,自分で訳したくない本です。

ジンメルの日本語訳への言及がおかしいので正しておく。
「装身具についての補説」ジンメル(居安正訳)『社会学 上巻』白水社 1994 p379-386.(1908)
流行」 『ジンメル著作集7 文化の哲学』白水社 1994(新装復刊) p31-61.(1904)
大都市と精神生活」 『ジンメル著作集12 橋と扉』白水社 1994(新装復刊) p269-285. (1903)
『ジンメル著作集2,3 貨幣の哲学』白水社 1994(新装復刊).(1900)

1999/07/10記

松崎憲三編『人生の装飾法−民俗学の冒険2』ちくま新書 197(1999.6.20) \600 222Pp.
目次
プロローグ 自己異化と自己同化のはざまで
第1部 儀式と装飾
 1章 お色直しと生まれ変わり
コラム 衣服と感覚
 2章 葬儀と祭壇
第2部 身なりと身ぶり
 3章 消えたアクセサリー
コラム 服を「キメル」と「着崩す」
コラム 流行りと仕切り
 4章 民踊と女性−身体化される「民主主義」
コラム 祭と熱狂
コラム 見得を切る
第3部 街角と人生
 5章 街の飾りと季節感
 6章 人生を彩る−広告コピーに見る日本人の生涯設計
コラム 痩身願望
日本民俗学会50周年記念事業として企画された『民俗学の冒険』シリーズの1冊である。

この本を読むと,カルチャル・スタディと民俗学はかなり重なっている。カルチャル・スタディのほうが後発であるので問題意識が鮮明である。逆に,民俗学のほうがいろいろな領域をもっているし,多様な観点がある。

本書は,装飾が持つ呪術宗教的意味,および社会的意味,そしてそれにかかわる人々の申請を解読すべく編まれたものである。(p9)
「コラム 流行りと仕来り」ではハヤリとシキタリの2つの共通点を指摘している。
(1)どちらも普遍性を欠いた,その意味でローカルで特殊な文化である。
(2)どちらも実利性や合理性では説明のできない行動様式を正当化する。

(1)については,
ハヤリは,あるいは地域や既存の社会集団を超えて広がるもののように思われているかもしれない。しかし,実際には限られた範囲,たとえば地域・年齢・性別・身分・階層・職業等々によって限定された集団内部での現象であることがほとんどである。「大流行」などと言ってもせいぜい十代後半から二十代前半の男女の一部に支持されたにすぎず,「世界的流行」がしょせん先進国の一定以上の経済力をもつ階層だけのものであったりする。(p118)
こういう見方をすれば,流行はデモグラフィック要因がきわめて重要ということになろう。

「コラム 服を「キメル」と「着崩す」」
本来は服をキメルことも着崩すことも,個々人にとって自分をよりよくアピールするための自由な着装テクニックであるはずだ。しかし,崩したルーズソックスでキメルにしろ,ブランド品でキメルにしろ,それは自己表現というよりは,周囲の人々と違わない自分をアピールする行為になってしまっている。その一方,極端に着崩したり上から下まで完璧にキメルことで自分の存在を強く際立たせようとする若者も少なくない。いずれにせよ,自分の望む社会との関係を服装によって表していることに変わりはあるまい。(p115)
こういう指摘自体はあたらしくない。ジンメル(1904)が「流行」でいっていることである。流行とはそういうものである。そうすると,逆に,意識として「自己表現」しているつもりかどうかが問われるところではないか。もちろん,ただ単に「それって自己表現」とか聞いても「別に」と答えられるのがオチであろうが。多く(半分くらいでもいいけど)の(女子)高校生がファッションを巧みに使って自己表現できるのだろうか? 高校生の制服にトラッド系が多いこと自体,まずトラッドを学ばせようという配慮があったのでは。香川大学なら大学生でも自分にあったファッションを学んでいる場合が多くあった()。多くの高校生がこのレベルにあったとしても不思議ではない。

また,ジンメルは「流行」の中において次の指摘をしている。
流行はまた,人間が外観を公衆による奴隷化に委ねながら,それだけにいっそう完全に内面の自由を救おうとするときの,あの諸形式の一つにほかならない。
もしかしたら,女子高校生の中にはナイーブな内面を隠すために流行に従っているものもいるかもしれないということも忘れてはならない。このように流行の機能はほとんどジンメルによって語られてしまっているといってよい。

「4章 民踊と女性−身体化される「民主主義」」において,農民体操まで指摘しているのに,なぜNHKのラジオ体操の指摘がないのだろう。外国人から見ると日本独特の踊りにみえるらしいし,民主主義の担い手だったんじゃない?

「6章 人生を彩る−広告コピーに見る日本人の生涯設計」は期待した分,がっかりした。分析が甘い。
旅のイメージを構成する文章
旅は,あたたかく,ときめき,くつろぎ,あこがれて,なつかしく,雅で,あざやかな思い出をつくる。(p213)
マイホームを構成する文章。
マイホームは暖かで,ゆっったりとし,エレガントで,ゆとりあり,成熟した暮らしが,末永く,快適に続くことを謳い上げる。
「旅とマイホームが喚起するイメージはよく似ている。」と指摘するなら,旅とマイホームの理想像の類似と挫折について語ってもいいだろう。いずれにしても,データが少ないし,イメージを類型化するときKJ法などを使って少しは説得的にする努力が必要だろう。

「3章 消えたアクセサリー」が一番興味深かった。「身体装飾」には,身体にものを付け加える「装身具」,身体に彩色したり模様を描く「身体塗色」(化粧を含む),身体に変形を加える「身体変工」がある(p91)。

日本では,土偶や埴輪に装身具がたくさんついていたが,7世紀後半頃から,身体に直接つける装身具が完全に姿を消したそうだ。文学や壁画などから確認されている。そして,「幕末の頃,天皇・将軍に謁見した外交官ヒューケンらが,世界の君主のなかに宝石で飾られていない君主のあることをはじめて知ったと,驚きをもって記した」(p98)。千数百年の長い期間,装身具が消えていた。ただし,身体に直接ではない,髪飾りは発達している。

身体変工の入れ墨は埴輪などに見られるが,途中消えていて,17世紀後半遊女やいくつかの職業のものが彫っているのが確認されている。18世紀後半に江戸で流行している。ただし,18世紀初めから刑罰の入れ墨が始まり,マイナスのイメージをもっていたものと思われる。

例外的に眉を剃ることと,お歯黒が平安時代からある。

こういう事情から,「もって生まれた体をわざわざ傷つけなくても」というピアス,タトゥー,茶髪(一太郎には「ちゃぱつ」で登録されていない)などに対する抵抗(p90)は納得できるものである。

身体加工である,ピアッシングについてほかからも言及がある。
伝統的社会においては身体装飾が返信,それも全存在の変換の意味をになっていた…。身体そのものが魂,あるいは命という領域に深く関わったし,自分という身体的存在を変形させる方法を社会が共有し,それゆえ身体もまた己のものであるとともに社会に管理,共有されるものでもあった。
 …。だが,たとえば若者のピアッシングが社会的な大きな反響を呼んだのは,そこから一定のルールのなかでのかすかな逸脱という以上に,自分の身体と自分という存在との分離や葛藤,身体の所有をめぐっての社会との綱引きともいうべきものが伝わってくるからであろう。…。  …。あらためて身体装飾とは,装飾することで,その痛みや感触,残る痕跡を通して身体を確認する行為である……。現在も,そしてこれからも私たちは自分という存在,自分という身体を確認,修正するために,身体を飾り続けるだろうが,…。(p109-110)
 著者(中村ひろ子・岩本通弥氏)によると,身体装飾の機能は「自分という存在,自分という身体を確認し,修正する」こということになる。

鷲田清一(1999)は,芹沢俊介の文を引きピアッシングについて述べている。
「一つの穴(ピアス用の)を開けるたびごとに自我がころがり落ちてどんどん軽くなる」という若者の言葉を引いて,彼らは「自己の体に負荷をかけ続けることで自我の脱落という感覚を手にいれている…。…」(朝日新聞,1995年8月30日夕刊)
さらに芹沢俊介・大澤真幸(1997)の対談での芹沢氏の発言
確かに,軽さを追い求めることが,いつのまにかその内部での重さに転じていくという逆説が,オタクといわれる若い人の生態に見られると思います.同時に,単に軽くなっちゃうことに対する身体反応として,何らかのブレーキを自己にかける現象があるような気がするんです.言い換えますと軽さをもっと軽くするために,逆にある種の重みを自分にかけていくという現象があるんじゃないか.例えば茶髪,ピアス,ボディ・ピアッシング,あるいはカラー・コンタクトをつけるといった行為は,部分的な重力を身体にかけている気がするんですね.軽いマゾヒズムといいますか…….それはおそらく無意識の対応だと思うんですけど,その対応が全体的なシステムの浮遊力,浮力に巻き上げられていくことに対し微調整をしているという印象があるんです.
「軽い」と「重い」との対比,「軽い」と「浮遊力」との関連づけからもうまく「軽い」という語が使われている。という点はいいんですが,分析的とはいえない言葉の遊びに近いものになってしまっている。たとえば,「軽い」とは何がどう軽いのか,「重い」とは何がどう重いのか。そういうことを考えて分析的になる。

このピアスの例はポストモダンについて書いたところで引用している「ピアスの自由」の大平健(1996)ではないのかな? おっと,引用の朝日新聞の日付が1995年8月30日夕刊となっているので,この出版の前だ。大平は「生活している私」と結びつけて考えている。
「私」を全くの心像(イメージ)としてブラウン管上の画像(イメージ)と同様に見做せば,「私」の身の上に起こった出来事など「リセット」できるわけだ。それが「軽い」ことであるならば,「重い」とはそのように「私」を「自分」から切り離せずにいる状態だということになり,ピアス少年の場合,耳に穴を開け奇抜な衣装に身を包むような「カッコウ」をした途端,「自分」が生身の「私」からついに分離できたということになろう。
(大平,1996,p170-171)
少し分析的になってます。

もっと,一般に考えられるような,「母親などの自分に対する期待」から自由になって軽くなったというようなものでもいいのではないだろうか。つまり,「母親の思っているいい息子像」からはっきりと離れることによって,母親の自分に対する期待を自分の上から引き離すことができた。それで軽くなった。もちろの母親でなくてもよくて,自分にとって重要な人でいいのです。そこで重要なのが,まだ「親からもらった体に傷をつけてはいけない」という考えが親の世代で有力である。または,教師の世代で有力であるということ。これがみんな認めるようになったら,ピアスや茶髪などで軽くはなれない。ソルジェニーツィンが好んでいっているそうだが,抑圧はリベラリズムのずる賢い柔和さよりもずっと置くの深い人間をつくりだすの類似の言い方をすると,抑圧はリベラリズムのずる賢い柔和さよりもずっと簡単に人間を自由にする。自分に対する期待はねっとりとかかってきている。また,一見不良でそういうものから自由になっている者でさえ,そういう期待をひしひしと感じているもんだ。

もう一つは,芹沢俊介の言っている「イノセンス」と関係している。
(イノセンスとは:堀挿入)ある事態−多くの場合窮地ですが−に立ちいたった時に人が発する言葉,取る行為に照応して出現する心のある方,心的場所のひとつと考えます。その言葉,行為が発しているのは「自分には責任がない」(あるいは「このままのかたちでは現実を引き受けられない」)というメッセージです。

成熟してゆくということは,こうしたメッセージを「自分には責任がある」というメッセージに,自分の手で「書き換える」こと,転換してゆくことを意味しているのです。そのためには,大きな飛躍が不可欠となります。問いたいのは,そのような飛躍をもたらす条件です。
芹沢(1997,p1-2)(改行は堀)
つまり,ピアスによって,この飛躍が起こる。「自分には責任がある」とか心理学用語での「自己効力感」が生じる。また,ピアスによって,これからの自分は自分で責任をもつ。そんな感覚が生まれるのではないか。そこで,他人に操作されている自分が消えて,自分が自分から生きているという感覚をもつのではないだろうか。まあ,親離れの通過儀式。

この2つのことが「軽い」感じを持たせるのではないだろうか。もちろん仮説です。

引用文献
大平健(1996).『拒食の喜び、媚態の憂うつ−イメージ崇拝時代の食と性』岩波書店

芹沢俊介(1997).『現代<子ども>暴力論 増補版』 春秋社
芹沢俊介・大澤真幸(1997).浮遊したままの身体を生きる 季刊インターコミュニケーション 1998年冬号,No.23,18-31.(論文はpdf ファイル)
この対談の中には,「地域浮遊」としてのコンビニ,携帯電話とインターネット,「ベル友」などのおもしろい考察もある

ジンメル,G.(円子修平訳)(1994)「流行」 『ジンメル著作集7 文化の哲学』白水社 (新装復刊) p31-61.(original 1904)

鷲田清一(1999).「寂しい」時代−伝達不能と無重力のはざまで アステオン,51,164-173.

1999/7/14記




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