Books 1999/06


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石原千秋『秘伝 中学入試国語読解法』新潮選書(1999) 中学受験だけの小学4,5,6年生
広田照幸『日本人のしつけは衰退したか−「教育する家族」のゆくえ』講談社現代新書(1999) しつけの2類型(階層差)
小柳晴生『学生相談の「経験知」−大学における心理臨床』垣内出版(1999) 強迫性を強めない教育
岡部恒治・戸瀬信之・西村和雄(編)『分数ができない大学生−21世紀の日本が危ない』東洋経済新報社(1999) カフェテリア式カリキュラムと少数科目入試の問題 
和田博文『テクストのモダン都市』風媒社(1999) 文学作品などに見るデパート創設期



石原千秋『秘伝 中学入試国語読解法』新潮選書(1999.3.30) \1,500
目次
第1部 ぼくたちの中学受験
第2部 入試国語を考える
序章 隠されたルール
1章 「国語」の基本型
2章 二元論で考える
3章 「言葉」を読む
4章 「自然」に帰ろう
5章 トレンドを解く
6章 「子供」であること
7章 気持ちのレッスン
8章 学校という空間
9章 友情の法則
10章 小学生には淡い恋がお似合いだ
11章 兄弟という不思議な関係
12章 親子は同じ人間になる

基本は帯に書いてある
漱石研究でカミソリ石原の異名をををと助教授が現代思想を武器に,全国有名私立中学入試の国語を解く!
現代思想ではなく,「記号論」ですね.「記号論」の話は筒井康隆『文学部唯野教授』岩波書店とかイーグルトン(大橋洋一訳)『 新版 文学とは何か−現代批評理論への招待−』岩波書店を読んでもらえばいいのですが,この本では見事な適用をしているので,応用問題としても適切です.この帯の部分は第2部です.


帯の続き
学級崩壊の中にいた長男とともに難関中学入試に挑む
これが第1部です.

一人息子と小学校4年夏期講習から中学入試へ共闘していった様子が書き込まれていて,興味深いものとなっています.

高校受験がないことがどうしていいのか,公立にいかないことがどうしていいのかなどの理由なども参考になるかもしれません.

興味深いのはいかに子供を自分の分身としてしまって,勉強だけの生活をさせてしまっているかです.親の期待を感じながら勉強に励むこどもの姿は,今の小学生の置かれている状況を活写しています.いかに子供が親の期待に忠実かなどもわかります.

こんなに頭がよくていい子でも学級崩壊の主な活動家です.まあ,勉強しかない生活で,学校の先生よりも遙かに国語を理解できる親がきちんと教育してくれて,塾にまでいっていたら小学校の並の先生ではまともに相手する気にならないでしょう.学級崩壊現象の一側面を理解するにも重要な本です.

親が成城大学助教授なので,十分の時間をとって受験必勝法マスターにつきあってくれているので,ほかの中学受験戦士よりも親子のつきあいははるかにいいでしょう.これで,親が,塾や家庭教師に受験勉強を丸投げしていたら,子供は親とどれだけの時間を一緒に過ごすのでしょう.小学校の4年から6年の間,これだけの時間を勉強についやしたら,あとは惰性で勉強して,大学では十分摩擦を受けていて止まるだけでしょうね.

これでは,人工知能的な人間はできても,同世代ともまともにつきあうことのできない人間になってもしかたがない.そんなことを実感させます.感情をいろいろ経験することもないでしょう.

第2部はいろいろためになることを書いています.
「国語」という教科の目的は,道徳教育にある.それが学校という空間のルールだからだ.だから,「成長することはいいことだ」とか,「自立することはいいことだ」とか,「人の気持ちを大切にすることはいいことだ」といったことが「国語」の教材のテーマになっている.
このあたりの話は清水義範『国語入試問題必勝法』で一部指摘しているところです.

国語の基本型には「〜が,〜する物語」「〜が,〜になる物語」の2つ.<内/外><大人/子供><心/もの>などの二元論によって理解する.

「文章が書けると言うことは大人の価値観を身につける」ということで,
文章を書く練習の第1段階は,大人の文章を真似ることである.つまり,大人の考え方を学ぶことである.具体的には,入試国語の記述式の設問について大人と会話をして,それを文章にまとめることから始めるといい.
のように実践的な解説がある.このような実践は中学入試だけでなく,高校入試,大学入試にも役立つし,大学教育でも役立ちそうです.
1999/06/04記

広田照幸『日本人のしつけは衰退したか−「教育する家族」のゆくえ』講談社現代新書(1999.4.20) \640
目次
序章 家庭のしつけは衰退してきているのか?
1章 村の世界,学校の世界
2章 「教育する家族」の登場
3章 変容する家族のしつけ−高度成長期の大変動
4章 変わる学校像・家庭像−1970年代後半−現代
5章 調査から読むしつけの変革
6章 しつけはどこへ

いいたいことは,シンプルである.家庭のしつけは衰退してきているとはいえない.家庭のしつけには2つのタイプが戦前からあった.
都市に住む富裕で教養のある新興勢力,すなわち専門職や官吏・俸給生活者などの新中間層のように家庭でしつけるタイプ,もうひとつが地方農村で放任するか学校にまかせてしまうタイプ.このプロトタイプは戦後もあり,1980年後も残っている.階層差としての差異であったが,近年のは階層差というよりもタイムラグとして残っているといえるだろう.

しつけにおいては,童心主義と厳格主義,学歴主義の3つの教育方針を同時にもっている.この3つはエゴグラムからすると,「自由なこども」「従順なこども」「大人」に対応することになるが,著者はそのような点は考慮せず,この3つを単に相互に対立するものととらえている.3つとも重要だし,必要なものである.これを対立すると簡単にいうのは単純な切り方である.家庭での教育は多面的でないと人間をやっていけない.

なお,著者は p20
意図的な「しつけ行為」と無意図的な「人間形成機能」とを区別する必要がある.親や教師が,子供をしつけようとする明確な意図を持ち,一定の組織性や体系性を持った基準や方法で子供に働きかける場合,「しつけをしている」と呼ぶことができる.これに対して,子供がある環境や状況のもとで生活する中で,望ましい生活習慣や礼儀作法を自然に覚えていくということもありうる.……それを「人間形成機能」と呼ぶ.
としつけは意図的に行うものに限定している.

都市部の新中間層の過剰に教育熱心な母親たちの3つのタイプ(p84)
(1)お金を惜しまずわが子の勉強や進学に力を入れる「教育投資型」
(2)わが子の潜在能力に過剰に期待を寄せ,いろんなおけいこごとに力を入れて,能力を開花させようという「能力過信型」
(3)心理学者の本を熱心に読んでそこに書いてあるアドバイス通りに自分の子供を育てようとする,あるいは,知能検査などの心理学的測定や診断をうのみにし,検査の結果を悲観して心中を図ったり,有名幼稚園に入れるために知能検査の練習をさせたりする「心理学ママ」

があるそうだ.

教育する家族がひろがったのは,1972年から朝日新聞に連載された「いま 学校で」が学校のどうしようもなさを徹底的にレポートしたためだった.おお,この連載で朝日新聞は教育に強いと思いこんでいました.最近の「学級崩壊」や「大学生の補習問題」などでは日本経済新聞が最初にレポートしています.朝日,読売はその後塵を拝しています.朝日は教育には強くないことがわかりました.まあ,教育の毎日と本来毎日新聞が強いはずですが,毎日新聞は週に3回程度しか読んでいないのでこれを評価することはできません.

p121
学校が信頼されていた時代から学校不信頼の時代へ.学校は「わが子の進学」や「わが子の個性の伸張」を最優先する親の,家庭エゴイズムを下請けする機関のような役回りを担わせられるようになるとともに,時代遅れの生活指導や集団訓練が,世間からも指弾されるようになる.学校の地位低下である.
そして,「親の自己実現としての子供の成長」というゆがんだ関心過多の時代へと突入する.1980年代には,「地域共同体は消え,学校は「教育する家族」に従属させられるようになった」(p128).
p128-130
 わが子の学校での様子について情報収集を怠らない親,学校にいろいろと注文をつける親,学者や評論家の書いたものをいろいろと読んで目の前の教師を見下す親…….学校は常に「わが子の教育」に異常に関心を燃やす親たちの,批判的な注視のもとにさらされるようになったわけである.
このあたりの記述になかなか迫力があります.特に小中学校のさらされている状況がよくわかります.高校もそうでしょう.今では大学にまで同じように親が介入して来たり,しようとしたり,サービスを受けようとします.

現代の問題として,p146-148 (1)「教育する家族」になりえない,都市の生活困窮層の存在
(2)「教育する家族」が牢獄のような逃げ場のない人間関係になってしまった家族の問題
う〜ん.こいつはしつけの話?

低学歴・低階層の親は,社会のルールを教えることを重視しながら,実際のしつけでは子供に甘い傾向がある.一方,高学歴・高階層の親は,子供の自主性を重視していながら,実際には子供をきびしくしつけようとする傾向が見られる.
この本で引用されている深谷昌志ほか『モノグラフ小学生ナウ vol12-5 しつけ』(1993) はインターネットに公開されている.ここ 買ったチョコレートを帰り道で食べたいとせがまれたときの図は5.母親の属性に関連させて 学歴と就園先の44(pdfファイル).43も一緒に読んだほうが誤解がないだろう.つまり,唯一学歴で差があったものだそうだ.

しつけの話は階級・階層とむすびつく.ヴェブレンによると「見せびらかしの暇(衒示的閑暇)」の一つである.この本ではそのことをはからずも証明している.

学校に躾を求める声があるが,これは「農村型」もしくは「困窮層」からの声と考えていいだろう.今,子供を躾ける時間がない層がこの本で想定しているより多いのではないだろうか.例えば,「パート」にでかける妻というスタイルは5割程度の家族にある.そのすべては貧困とはいえないが,パートのため「時間」を多く失っているのに,実入りは少ないという場合が多い.金銭的にやっと人並みになっているが,失った時間によって余裕がなくなる.そのため子供とのきちんとした接触ができない.躾けまで進まない.そんな家庭は,家族で旅行しているところを見ればわかる.子供が親と一緒で自分と向き合う時間を持ったので,過剰に喜びをあらわしまわりに迷惑をかける.そんな風景があちこちで見られる.また,子供が他人に迷惑な行為をしても制止しようとしない親も多い.新幹線などでよく見る風景である.

さて,研究のもとになったデータを一部改変(カテゴリーを統合している)を見て考えてみてください.

1999/06/05記

この本では,明治時代からのいろいろな本や報告書を参考にデータに基づいて語るようにしている.新書版としては堅い書き方である.

ところで,江戸時代に「教育する家族」がなかったのだろうか.そういうことに関する問いかけがないはこの本の弱点であろう.武士の階級ではしつけが厳しかったのではなかろうか.公務員や教育関係などの規範は江戸時代の武士の規範と似たものではないか.

もうひとつ,教育する家族ではなく,しつけの問題として,商工業のほうでは,山本七平『日本資本主義の精神』光文社文庫(絶版なので,『山本七平ライブラリー 9  日本資本主義の精神』文芸春秋社,1997 のほうが手に入れやすい )が江戸時代の石田梅岩などの説明をしていて,身を律する仕方について,資本主義的なあり方,考え方があって教育されていたことを示している(小室直樹『日本資本主義崩壊の論理』光文社(カッパビジネス)のほうが読みやすい).

この本で<子供の発見>が強調されているが,今の時代,子供を小さな大人と扱おうとして失敗している面が多いのではないか.つまり,小さな大人ならそれなりの責任を持たせる必要がある.しかし,責任はもたない.実際にはヴェブレンのいう「代行的閑暇」をしている.勉強していればなんでも許されるモラトリアムでもある.その例は石原千秋『秘伝 中学入試国語読解法』新潮選書に詳しく説明されている.子供はお手伝いさえしない,バイトも許さない,自分で服も選ばないで制服を着せられるこれでは自分でコントロールしているという感覚をもてないであろう.問題は,しつけだけでなく,現実とのインターラクションそして自分でコントロールしているという感覚を持たせると言うことであろう.つまり,子供がゲームの世界でバーチャルなところにいることが問題でなく,親が子供に何もさせないため,現実世界そのものがバーチャルな世界になってしまっているのである.つまり,親の期待と学校や模試の成績,テレビ,ゲーム,マンガ,どこで現実と肉体で接触しているのだろうか?しつけの重要な部分は現実との折り合いの付け方ではないのか?

それがブルデューのいうハビトゥスと関係しているは間違いない.この本の中でも階層差・地域差の存在はある(p155-156)としている.しかし,以前ほど注目をあびなくなったり,言い立てないようにしているとしている.しかし,これらを考えないで親たちのいろんな要求を仕分けするのは難しい(p131).ハビトゥスや文化の差であると考えると,それが世代に伝わっていくことにも配慮しないといけない.

1999/06/06追記

1999/10/11 追記
公開座談会<学級崩壊はしつけでくいとめられるのか?> に著者自身の要約がある。

小柳晴生『学生相談の「経験知」−大学における心理臨床』垣内出版(1999.5.10) \1,400
目次
1 学生相談から見た現代の学生像
2 学生相談から見た不登校現象
3 大学生の不登校
4 私とカウンセリング
5 私とエンカウンター・グループ
6 閑話休題:自分を事例として語る
7 学生相談の四季
8 カウンセリングの周辺を支えるもの

著者は私と同じ香川大学にいる.香川大学のなかでは,全国紙の地方面でなく教育面などに最近よく登場している方です.おもわず「こやなぎ」と読みそうですが,「おやなぎ」と読みます.

小柳さんはマーケティング的才能があり,かつキャッチフレーズづくりがうまいと人欄でいます.かつて四国における「お遍路さん」を四国おこしに利用するのがいいという論文である新聞(実はどこか忘れた)で賞をとっていました.

この本のなかでも,「貧乏モデル」から「豊かさモデル」への変換というあたりに才能を発揮している.(p47)
これまでの日本の教育は,言わば欠乏の時代に応えるタイプのものであった.これを仮に「貧乏モデル」と呼ぼう.大学で言えば,教育,研究が主目的であり,副次的に学生生活やサークルがあるというモデルである.
……
 学生相談は,戦後まもなくアメリカからもたらされたのだが,アメリカの快適な学生生活を援助するという理念,つまり「豊かさモデル」に基づくものであった.…
物理的にみても,「貧乏モデル」となっている.小中学校の話 p57-58
….学校を子どもたちが長い時間過ごす生活の場所としてあらためて見直ししてみると,決して快適な場所といえない.確かに一昔前に比べれば校舎はきれいになっている.しかし,どの学校も判で押したように四角い四階建てで,美的に優れているとはいいがたい.….そして,当時としては知恵も使い,進歩の象徴であったコンクリート造りにしたのである.
 しかし,社会の富裕化のペースは学校のそれより早かったのである.建設当時は自慢の学舎であったかもしれないが,数十年を経て結果として近隣でも醜悪な建物の一つになっている.  …. 学校は友達と話したり遊んだり対人関係を営む生活の場でもあるが,それに似つかわしい環境が整っているとは思えない.広々としたロビーもなければ,食堂もない.疲れたときにしばしボーッと過ごせる憩いの広間や木陰もない.今の学校は,子どもをしばし腰を下ろすことさえ許さないのである.
慶応大学が食堂をきれいなしゃれた空間にしてから数年たって,香川大学でも食堂をきれいにし,クーラーも入った.アメニティ広場というのもできました.大学というのはもともと小柳さんが指摘しているようなことには比較的気を使っていたのですが,どんどん環境が悪くなってます.経済学部なんかでも女子トイレが独立してあるのは少数で,ほとんどが男女一緒のドアから入って,中で間仕切りしているだけです.なんか,女子は1割以下の時代の産物です.

今は家庭でクーラーは当たり前ですが,国立大学の場合,7月12日にならないとクーラーをいれられない.ちなみにその日は東京の梅雨明けとだいたい一致しています.貧乏モデルかつ東京中心モデルです.なぜ温度による設定にしないのでしょう.暖房も期間限定です.その期間のなかで温度による規制をいれているようです.

大講義室なども貧乏モデルです.みんなキチキチに詰めて座ることを前提にしています.

この本では最近注目されだした,大学生の不登校についてかかれている.このことでは小柳さんは第一人者であり,新聞,テレビでコメントしている.

臨床的に特に重要な指摘は,軽い対人恐怖症が多くなっているということと,「強迫性」を強める傾向が学校にはあるということである.

不登校の原因の一つに抑うつがある.抑うつのタイプを疲弊型,逃避型,アパシー型の3つに分けている.疲弊型は几帳面,完全主義という「強迫性」のために,あらゆることを怠りなくこなそうとして,心身とも疲れ果てて不登校に至る.

「強迫性」を強める教育をしているのが問題だと指摘している.

ここで言っている強迫性はフロイトの性格理論では肛門期といわれているもの,つまりトイレットトレーニングが厳しすぎて失敗を何度も経験し(笑)この時期に固着してできる性格タイプなるものの一部である.

「強迫性」は若林明雄氏のいっている執着性である.若林明雄(『人を理解し,ヒトを知る』日本経営協会総合研究所 1992,その他の論文)はクレッチマーの性格3類型(循環性気質,分裂性気質,粘着性気質)もとにしながら,循環性気質の下位タイプとして「高揚性」と「執着性」をあげている.その「執着性」である.
執着タイプは
(1)完全主義で努力家
(2)頼まれたことは何でも引き受けてしまう
(3)人間関係を大切にする
という特徴をもつ.

一方は,教育の問題を重視し,もう一方は性格類型を重視しているが,特徴は同じである.疲弊に追い込む,追い込まれるスタイルがあるということになる.「強迫性」は「執着性」よりもネガティブ面を強調しているし,その帰着も暗示するものである.

小柳さんの研究に興味をもって,データを再分析させてくれと頼んだとき,「授業で教えるだけなのに,そこまでやりますかね」と子犬を見るような目で見られたとき,このあたりのことを頭に浮かべながら言われたのでしょう.しかし,研究する,人に教えるというときには,少なくとも自分に対しては「執着性」を求めるものです.

あとは,山崎正和氏の「生産する自我」「消費する自我」の話を引用していて,これも重要なポイントとなっている.山崎氏の「社交」やジンメルなどに関係づけて,徹底議論をしたいところですが,それはまた別の話.

大学生の悩みや現状や対処の心構えを知るのに,一読しておいていい本です.

1999年6月6日記

岡部恒治・戸瀬信之・西村和雄(編)『分数ができない大学生−21世紀の日本が危ない』東洋経済新報社(1999.6.17) \1,600
目次
はじめに
1 少数科目入試のもたらしたもの
2 創造性論議の落とし穴
3 職場でも不可欠な論理的思考
4 数学は役に立たないのか
5 数学教育の重要性
6 教養部廃止と理数離れ
7 腐った教授,腐った学生相手に奮戦す
8 小学校における「数学の危機」
9 日本の中高生の学力
10 京大生の数学力
11 数学教育の国際比較
12 日本の大学生の数学力−学力調査
13 文系学生の数学力 ここが問題!
この本での基本的主張は,国語・数学・英語の基礎科目を重視せよ.また,文系・理系に関係なく「理科・社会」も大切であるからきちんと学習するようにせよということである.

数学がダメになっている理由として,
そのほかの指摘もあるが,私のとくに共感するのはこの3つ.

入学試験で人間性を測ろうなんて思い違いや,大学難易度として偏差値を高めようとして少数科目にすることの間違いなども,考え違いを指摘している.

後者については,この本で問題にしていないことを2つ指摘しておく必要がある.

一つはもう難易度よりも受験者数の確保のほうが重要になってきて,難易度以前の問題になっている.なぜ難易度以前かというと国立大学の場合,文部省は定員を確保しないときついおしかりを与える.この員数主義のために多くの大学が腐っていっていることを認識しなければならない.つまり,定員以下でも小学校レベルのようなものでさえ入れろというのだし,実際そういうことが一部で起こっている(この本の数学の成績も一部それをサポートしている).

第2に,大学にとって前提となる科目は入試の科目として必須のものと指定すべきなのにそれをしないのは大学の責任である.もっとも,この点も一つ目と同じことが問題となる.

「ベンチがアホやから野球ができへん」と同じように,「文部省がアホやから教育にならへん」という事態が起こっている.まあ,どんなことをしても問題はありますが,問題解決をしようとしてどんどんダメなほうに寄っていくのはやっぱりアホとしかいいようがない.

さて,ぼやきはこのぐらいにして,

1998年4月に,小学校レベル5問(分数3問),中学校レベル11問(12欄),高校(2年まで)レベル5問(8欄)の21問,25点満点の問題を国立・私立大学文系学部および,台湾・中国の大学に実施し,分析したものです.なお,1976〜85年のカリキュラムだと1問(2欄)だけが高校1年レベルであとはすべて小・中学校レベルとなっている.1986〜1995年のカリキュラムだと,すべて高1のレベルまでに収まっている.もちろん問題はすべて素直な初歩的問題であり,文章題のようなテクニックを要求するものではない.

それでも私立大学トップクラスの大学おそらく,早稲田か慶応でのある文系学部では数学受験者は 21.7点であるが,数学未受験者は13.2点である.推薦が17.3点.分布図(p256 この図についてちゃんと説明がないが数学未受験者だけでしょう)をみると,だいたい一様分布(つまり0点から25点まで同じ%程度いる)になっている.本来なら,低くみつもっても20点以上に集中するはずである.私立で下位校のk大学は下位グループの中ではいい方であるが,数学未受験者の平均は13.8点である.平均のあたりで盛り上がり,高校レベルと中学レベルの一部は全くできないものと思われる.

じゃあ,実際数学がダメになって大学教育はどうなっているかというと, p254-255
20年くらい前までに教えていた経済原論の授業が今ではできなくなっている.これは,国公立を含めた一般的傾向である.数式を用いた説明を避けて,図で説明することにとどめざるをえない.ところが,数学をとらないで入学してきた学生の場合,図を理解することもできない.直線の式と直線の図の対応関係がわからないためである.そして分数や比がわからないと,直線の傾きもわからないことになる.
20年も前に,単に合計という意味でΣという表現をしただけで恐れる学生がいたのでびっくりしましたが,グラフもダメですか.

大学卒と高校卒の違いを考えたとき,多くの学部で統計処理ができるというところに落ち着くのではないかと思います.もっとも,実際にはそれができない学生がほとんどですから差がないのです.その統計処理の理解のためには,Σという記号や行列計算が最低限必要です.もちろんきっちり学習するには微積なども必要ですが,行列やΣの記号がなければ,まったく応用の利かない,丸暗記またはコンピュータ操作でしかなくなります.

数学的なことはかなり時間をかける必要がありますが,内容に関したことなら本を読めばたいてい修得できます.そういう意味で科学的思考法の基礎,実際のデータを見るうえでの基礎の統計学が重要です.中卒・高卒ではよほどしっかりした社内教育システムをもたないかぎり,たいてい間に合わないのです.

 もう一つは,「大学生ですら間違える.分数は難しいから小学校から外せ」という議論です.「難しいから外す」というのは危険な論理です.この論理には歯止めがきかず,「難しいから中学校からも外す」となります.さらに,「難しいものは外す」の議論を一般化すれば,「算数・数学は難しいから外す」,さらには,「勉強は難しいから外す」という結論が導かれます.しかし,難しくとも,児童・生徒の成長段階で教える必要のあるもをは削除すべきでないことは,….(p.ii〜iii)
このあたりの批判は「消費者主義」(consumerism)への批判と考えていいでしょう.

なお,この本の中で言及しているがURL を書いていないところがあったので goo で検索しました.
日本数学会大学数学基礎教育WG文書 LIST の中に文書があります.特に「workshop の記録」のところに注意.ワークグループの大本は,日本数学会 大学基礎数学教育 WG HOME PAGE です.

1999/6/12記

和田博文『テクストのモダン都市』風媒社(1999.06.25) \2,800
目次
1 テクストのモダン都市
2 郊外住宅/アパート
  電車/円タク/地下鉄
  デパート
  カフェー
  放送局
  競技場
  ダンスホール
3 新たな<知>の世界へ
 文学作品や雑誌や硬めの本などあらゆるジャンルのテクストから日本のモダンの象徴的な場所を活写する。いろいろおもしろいのですが,デパートについてだけ少し紹介する。

デパートの章の目次
恋人まで包装してくれる百貨−店
東京見物の名所
多義的な文化装置
裏面の文学誌
ファッションの発信地と与謝野晶子
百貨店の始まりついてもカバーしている。例として三越について少しあげてみよう。
 三越は座売りを陳列法に改める。(残念ながらその都市を書いていない)。
1914年 ルネサンス式5階建ての新館(東館)が完成1,食料品・洋酒・園芸売場を新設
1921年 西館(地上7階,地下2階)落成
1923年 関東大震災 本店全店と内別館を消失
震災後施設を一新し, 下足預かりを廃止
ということを経て大衆化路線へ走るのであるが,1936年市川房枝は次のような指摘をした。(p112)
気軽に昼「遊びに行く,息抜きに行くといふ場合が相当」あり,「日本の婦人にとつては,婦人解放の役目を一部果たしている」と。気軽に昼食をとれる食堂を備え,子供の遊び場もあるデパートは,女性の外出を容易にした。
市川房枝の論文は『百貨店対中小商業問題』(東洋経済新報社)に載ったものだそうだが,テクストは文学のみならず,雑誌や専門書などにも及んでいる。

「財布は空でも」楽しめる装置については文学作品からいろいろ楽しんでいた様子がうかがえる。「三越や白木屋のエレベーターを上下せずんば,東京を見たりとは云ふべからざるべし」などというのを大町桂月『山水めぐり』(1919,博文堂)から引いていたりする。その博覧強記ぶりがすごい。ここで引用したのはそれほどおもしろくないところですが,実際には写真も多用し,当時の雰囲気がわかるようになっている。また,デパートの機能がどんなところにあるか考えさせる。

デパートにこだわってほかの本も散策してみる。

日本のデパートの食品部だけにしぼった本もある。
吉田菊次郎(1999)『デパートB1物語』平凡社新書
これはテクストから構成したものではないが,日本のデパートの歴史の創設当初と食料品売場の現状を知るのにいい本。

また,フランスのデパートについてのテクストからその時代を活写しているものに,
ジョアン・フィンケルシュタイン(1998).『ファッションの文化社会学』せりか書房
がある。第5章の百貨店と万引き現象(p89-94)についてエミール・ゾラ『淑女の娯しみ』(1883)から引用を多用し,いきいきと当時のボンマルシェ百貨店と女の関係を伝えている。和田の本でも万引きに関する記述がある(裏面の文学誌)。

デパートの始まりはこのボン・マルシェであるが,これに関しては
鹿島茂(1991).『デパートを発明した夫婦』講談社現代新書
が詳しい。この本でもゾラが引用されている。

米国については,もっといいデパート紹介の本があるかもしれないが,
スチュアート&エリザベス・イーウェン(1988).『欲望と消費』晶文社
が米国の初期の百貨店の意味を指摘している(p86-88,p227-)。この本は"Channels of desire" の訳本です。元版のほうは1992 年に改訂版がでて,最後の章つまり5章が全面的に書き換えられています(Shadows on the wall)。それ以外は変更したともいっていないし,ちょっとチェックしたところ,どうもそのままのようです。

デパートのパワーが落ちてますが,初期のころの魅力をもう一度振り返って参考にするのもいいでしょう。それはまた大人に万引きさせるような魅力ある空間でなければならないのです。

1999/6/22記

1999/7/10追記
オーストラリアのデパート McWhirters department store について
Reekie,G.(1992). Changes in the Adomless eden. in Rob Shields(ed.) Lifestyle shopping: The subject of consumption. Routledge. がある。




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