Books 1998/9


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長谷川博一『こどもたちの「かすれた声」−スクールカウンセラーが読み解く「キレる」深層心理』日本評論社(1998) キレルはアダルト・チルドレン
三森創『プログラム駆動症候群−心をもてない若者たち』新曜社(1998) 心なき行動・言動



長谷川博一『こどもたちの「かすれた声」−スクールカウンセラーが読み解く「キレる」深層心理』日本評論社(1998.7.30) \1,500
目次
1章 「キレた」少年のナイフ事件
2章 深層心理学で「キレ」を考える
3章 光と影のバランスを崩す子どもたち
4章 子どもたちを「キレ」に向かわせたもの
5章 傷ついた子どもと社会

「かすれた声」ということばにひかれました。
p.iii
「かすれた声」とは、のどを痛めてしまって人には届かなくなった声なき声です。最初のうちは一生懸命に出していたのですが、それがだれにも受け止められないまま疲れ果てて、とうとう出なくなってしまった、そんな状況をたとえたものです。そして今の時代の、「声をかすれさせないと何も言えない」ような、自己抑制を強制してくる、がんじがらめの社会構造に対する風刺でもあります。

p.iv
 今の子どもたちの多くは、思春期に入る前頃から、本当の気持ちをかたくなに閉ざしてしまっています。声がかすれるというのは、それらの思いを言葉として表現することができなくなって、身体の症状を通して訴えてくることを意味します。

キレるを解離(dissociation=association の反対)と著者は考える。意識(の要素)を統合する自我と無意識(の要素)を統合する無意識主体とが解離すると考える。

解離にはいろんなレベルや質がありますが、意識と記憶の間だの解離だと、過去のことを思い出せなくなる。意識と視覚からの情報の解離があると眼がみえなくなる。これは京極夏彦の作品で使われてましたが、それはインチキだろと思いました。いろんな「感覚情報」と意識が連携をゆるめてしまうと、その場にいるという現実感が薄れてしまう「離人症性障害」、場に即した感情を麻痺させてボーッとしてしまう「失感情症」として体験する(p.49)。ロボットになったような感覚です。

外から観察すると、解離した状態の特徴は「視線はふだんの柔らかい動きを失って、鋭く一点に固定されたり、焦点を定めないで空間に投げられたり、小刻みで単調なふるえが続いたり」する、「まばたきは一般に減少し、結果的に相手の目をにらむことになる場合もあ」る。

ゆっくりした解離と突然の解離があって、突然の解離の場合、いわゆる切れた行動をする。ゆっくりとした解離だと自分をある程度モニターできその状態でどうすればいいかわかる。ゆっくりとした解離は女性に多い。このあたりの説明はおもしろい。

「侵入自己」の「自己否定」の論理がとてつもなく強く、いつも「ダメな自分」を感じながら生きている(p122)。
現象面についてはだいたい以上のようにみる。
原因はアダルト・チルドレンにあると考える。
切れるのはアダルト・チルドレンだからだ。アダルト・チルドレンは親から良い面を見せるようにすることを何度も何度も強要され、自分もそうしようとしてしまう。光の面(=自我)だけをだし、影の面(=無意識)はまったくださない。

対応の一つは、「影」をだすことであり、「影」の部分も認めることである。 「小さな悪を時々演じながら、「影」のエネルギーを放出するからこそ、人は「光」のエネルギーを注ぎ続けることができる」。
アダルト・チルドレンを斉藤学にならって「複合型PTSD(心的外傷後ストレス障害)」ととらえる。つまり、心的外傷(トラウマ)とは、衝撃的な体験によってこころにつけられた傷を意味し、複合型で一度だけでなく何度も心的外傷を受けたことを意味する。
この概念は「学習された無力感」learned helplessness (もともと無気力なのでなくどうしようもない事態(例。自分に解けない問題やらされる)に何度もさらされると無気力になる。なんに対しても無気力になる場合と、特定の事態だけに無気力になる場合がある)と同じですね。「獲得された」という言い方もしますが、このことばのほうが態度になってしまうことをはっきり示します。
波多野誼余夫・稲垣佳世子『無気力の心理学』 中公新書 81-02165
には獲得された無力感についていいまとめをしています。2人の『知的好奇心』(中公新書)とともに一度は読んでおくべき本です。

そして、対応の具体的なことは、その個人を生きているまま認めること。その理由は次のような点にある。
p111.
解離した行動の中には「計画」がある。それは、大事な他者(大人)を発見して、その人のことが本当に信頼するに値するかどうか「試し」を行うこと。
p114
解離の中で悪を演じながら、この人は自分を嫌わないか、頭ごなしに怒らないか、あきらめないかをちゃんと見ています。これを何度もくり返して見ています。そして「この人は今までと違う(受け止めてくれる人かも知れない)」という初めての感触を得ることができると、試しの水準はもう1ランク引き上げられます。
p115
解離が慢性化した段階では、ある程度の暴力を認めてやって、むやみに制止しないことが必要だと私は考えています。
と最後のところの理由は「暴発的キレ」ではないということです。例の東大卒で出版社につとめていた父親が殺した息子に対する対応についてのコメントでもあります。
セラピーであるから当然とも言えますが、この考え方はG・ホフステードのいう男性らしさ-女性らしさの「女性らしさ」の極によっています。そしてそれは次のように、学校に対して強く求めているのです。
p196
家庭が母性を十分に発揮できなくなった今、学校が母性機能を代行していかなければなりません。・・・。子どもはまず学校で認められ、許され、愛されることによって、外部からの「許さない」とする強い力が本来の諭す役割を発揮するのだと考えます。それはあくまでも、父性と母性の「融合」であってはいけません。「連携」と「融合」は全く違うものです。

p197
自然が豊かな時代は、それが子どもたちの「影」を十分に吸収してくれていました。…。大人たちが自然に代わって子どもたちの「影」を吸収していかなくてはなりません。…「子どもなんだからしょうがないなあ」と見守ってあげることです。
アダルト・チルドレン系の教育者はとくに受容することを強く求めますが、この本ではその理由をわかりやすく説いています。

著者は本書の中で母子関係が大きいことをいっています。つまり、アダルト・チルドレンだった母親が子どもにトラウマを与える世代連鎖があるという。アダルト・チルドレン系では既知の事実です。だからこそ学校がみないといけないという。小学校ではまあいいとしても、中学校でもそういうふうにやっていけるのかな?
カウンセラーまたは副担任というようにまったく違う人が入ってこないと完全な受け入れは無理だと思うが。著者も「カウンセラー」をおくことを強くすすめている。
家庭の機能に何が残っているのだろうか?ビクトリア式家庭像ではいけないのだろうがはたして家庭は何をやっているのだろう。
小此木啓吾(1992)『家庭のない家族の時代』ちくま文庫のホテル家族も結構すごいけどそれ以上というのかそれ以下の状態が進行している。

陳腐ではあるが、やはり気にとめないといけないのが、「子どもを攻撃していることに親が気づいてなくても、子どもは傷つけられて親の侵入を受けていることも多い」ということだろう。

キレルという方向に切り替わるのはなんだろうか?そのことにはこの本では触れられていない。単なる興奮だけではどうもいただけないと思うのだが。反転理論のような、切り替わりによって急激に対人態度がかわるというふうには考えてはどうか。反転理論は講義では簡単にしか説明しないが、対人態度も自分に利益モードと相手に利益モードの切り替えがある。もっとも、この本の中では要素と態度が結びついているようなので、特定の内容に触れると「相手否定モード」に入るというように解釈できる。これは反転モードとも関係はある。

心の多重性はミンスキーなんかもいっていることだけど、自我を問題にしている中村雄二郎はミンスキーと対談しながらそのことに触れないのだろうか不思議だ。(対談はNHKでやっているが、300歳まで生きたいという馬鹿話を展開している(東京新聞「未来に挑戦する精神 」)。

アダルト・チルドレンという見方はおもしろいが、枠組みがエゴグラムに似ている。

1998.9.12記


三森創『プログラム駆動症候群−心をもてない若者たち』新曜社(1998.3) \1,600
 0.Eメール
 1.プログラム・ドリブン
 2.PDOS(心理的無組織化症候群)
 3.プリクラ(プリント倶楽部)
 4.プログラム入りグッズ
 5.エクスキューズ(言い訳)
 6.サザエ
 7.姿勢制御
 8.歌
 9.アイテム
10.マインド駆動(Mind-driven)
11.援助交際/オカネ
12.コンビニ
13.パーソナル・メディア
14.いじめ
15.イリンクス(めまい)
16.PDOS・パート2
17.ストーカー
18.サイコパス
19.プログラム・ファミリー
20.マインド・コントロール
21.マインド・コンストラクション

この本を読んで、「モーガンの公準」を思い出した。

「モーガン(1852-1936,イギリスの動物心理学者)が動物の行動を擬人的に解釈しようとする当時の傾向をいましめて提唱したもの。もしも動物の、ある行動が、心理学的に見て下等な精神機能によるものとして単純に解釈することができるならば、これを、それより高等な精神機能の働いた結果として解釈してはいけない」(宮城音弥編『岩波心理学小辞典』岩波書店,1979)。

心に組織がない、心にまとまりがないタイプ=「心がない」タイプ
心がないので、自分の中に動機や理由をもつことができない。自分の中から行動できないとすれば、自分の外から「行動の手順」(=プログラム、マニュアル)を読み込んで行動するしかない。(p7)
このようにプログラムを読み込んで行動することを「プログラム駆動(program-driven)」と三森氏は呼ぶ。

反対の状態を「マインド駆動(mind-driven)」と命名している。「心に運転されている」ということ。普通の人間はマインド駆動だとしている。

プログラム駆動の人は、「自分を理解できない」「自分から行動できない」「自分の内面で活動できない」→心がなくなる→これを「心理的無組織化症候群」(Psychological De-Organization Syndrome)PDOS(ピードス)という。(p12)

プログラム・ドリブンの行動があらわれたとき、その時間は子どもにとって、潰す時間だけになっている。その時間は消費する時間であり、何か生産する時間ではない。(p16)

プログラム・ドリブンは「行動の原因は何でもよく、行動の対象も何でもよく、行動の結果もどうでもよく、ただ行動の手順だけが実現するという現象を説明する」概念。

p28
*窓ガラスが割れたのは、割れるものだったから
*旅行に形態プレーヤーをもってきたのは、持って来たいものだったから
*金づちを投げたのは手元にあった投げるものだったから
とモノの意味やその影響をまったく考えることなくそのモノにたいしてすることのできる行動をするというタイプの若者たちがどんどん増えてしまいました。

この記述はしばらく前からいわれている「アフォーダンス」の考えそのもの説明しているようで不気味だ。アフォーダンスの言い方を茶化して言えば人間の中には表象がなくモノがその在り方(使い方)を語りかけてくれる。つまり若者はアフォーダンス通りに行動しているだけだ。アフォーダンスという考えはこのあたりを先取りしていっていたのだろうか?

一方で、マインド駆動の人は別の困難を持っている。
p28
自分自身の動機や理由をもつために心を組織化するのはたいへんつらく、本人(子ども)はいろいろな苦労を引き受けなければなりません。中には自分なりの動機や意志をつくることと引き換えに打ち消したくなるような重い代償的過去を引きずり続ける者もいます。

こちらは大きな物語をもっている者かもしれません。少なくともアイデンティティをなんらかの形で持っている者です。重い代償の一つにアダルト・チルドレンというのがあるのかもしれません。

次の意見はPDOSの子ども・若者に対してきびしい接し方を志向するものとなるでしょう。
p29
若者たちの心の無組織化をくい止めるには、彼らのプログラム・ドリブンの行動に付き合ってはいけません。聞いてあげる動機、うなずいてあげる理由は何もないのです。教師は生徒自身を理解するのでなく、生徒の行動そのものを理解すべきです。……。この生徒は自分がいいか悪いかを考えて「自分が悪くない」といっているのではない。この生徒は心がなくて、自分がいいか悪いかを考えられなくて、それで「自分が悪くない」と言っているだけなのだ、と。

p34 プリクラやテレクラについてのコメントで
大人自身がよく知らない、青少年の新規の現象を、青少年なりの自然発生的な現象であると考えるのは根本的に誤っています。それは大人が教えていないがゆえにあらわれた心の無組織化の現象なのです。青少年の「心の」現象ではなく、青少年の「心のない」現象なのです。

子どもや若者のPDOS化の原因は親や大人たちの子どもに対するPDOS行動としている。PDOSのプログラムの主な供給源はマスメディアと商品市場(p105)である。この行動をマインド駆動になるよう治療するのはきわめて困難としている。学校の片手間で直せるようなものではない。この本では治療法についてはほとんど触れていない。日本社会全体の変革が必要なことをあげている。実際、カウンセリングが現行社会システムの補強でしかない点を考えるなら、社会システムの変革をまず視点において考えるべきである。あえて治療法を考えるなら、アダルト・チルドレン派の人たちの徹底的な治療法がひとつの参考になるだろう。

三森氏はいじめに一つの原因を認めるのでなく多様な原因を認めている。いままで、一つの原因ばかり追求しているものが多いのでこの本の良さということができるでしょう。

いじめのタイプ分け
刺激・反応結合によるいじめ30%
認知に基づくいじめ20%
関係性に基づくいじめ10%
プログラム・ドリブンのいじめ40%

パーセンテージは腰だめの数値である。それぞれ説明があるので、本にあたって欲しい。
ここでいっている刺激・反応結合によるいじめはいわゆるS・Rとちょっと違う。またこの説明からすると、プログラム・ドリブンのいじめは刺激・反応の結合されるまえのランダム行動とその強化つまり、スキナー流のオペラント条件づけが起こる過程とその結果をあらわしている。そういう考えなら、対いじめ策としては、いじめと思われる行動をされたときの反応法を学習するのがいいということになる。アメリカでは実際にどう反応するかの教育もあるという。

「時間消費」の行動手順を得るということがプログラム・ドリブンの購買層に適している。
「時間消費のしかたが明確であること」「身体の動かし方が明確であること」。つまり、「どこに行って、何を買って、どう手足を動かせばいいのかという行動手順を明確に含んでいる商品、番組、記事、情報が売れる。「商品と行動の意味に一貫性はありません」(p106)

「時間消費」は消費者行動としては高い意味を与えている。そこに人生の充実感を見いだすことができると考えるから。しかし、ここでは、全く無意味に消費されることになる。
また、ポストモダン的な行動や言動も、PDOSならば無意味な言動ということになる。著者も指摘しているように、15,6歳で個性などはっきりしている可能性は少ない(p52)のだからその消費パタンに極端に意味を求めるのはナンセンスであろう。中高生が消費の中心と思ってしまうことに大人の病理があるのかもしれない。

しかし、本当に考えていないのだろうか? 確かにながら族のように考えないシステムはできているのだが。ここでの指摘はまともな反論のようにみえてもそれは単なる反応(行動)と受け取れということだ。そのように思えることもあるが、そうきめつけることは難しい。なお、低関与についても考えてみよう。

PDOSの特徴 p66-67 * 行動に制御がない 調整・加減がない * 充足・達成がない 飽和か疲労でしか行動を停止しない * 他人をモノ扱いする 自分の行動の実現に固執する * 自分が行動を起こしたという意識が弱い * 行動が矛盾していても心理的に葛藤しない p150 プログラミング・ドリブンの行動があらわれたら * 本人にしゃべらせない  (しゃべらせても矛盾をついたりしない) * 彼らなりの意志があると仮定しない  (行動だけを事実認定する) * 自覚 反省 判断 想像などの内面活動を指示しない(むだ) … 一般に 言葉は通じません  PDOSにとって言葉の意味を考えることほど  苦しいことはないのです  PDOSにとって言葉は 単純な発生行動か興奮表出か  あるいは脚本読みです
人間のつくることのできる心 p172 1 メカニズム(刺激−反応の仕組み)の心 2 アイデンティティ(自己同一性)の心 3 インタラクション(相互作用性)の心 p187 行動を起こす原因が、人間の外にあるか(メカニズム)・内になるか(アイデンティティ)・間にあるか(インタラクション)の違い。
心を「つくる」と心の優れた働きをする p196 * 内言という自分だけの言葉をもつことができます * 意味という自由に心の中で動かせる材料をもつことができます * 自分の中で時間を止めたり進めたりすることができます * 相手の心の世界に入ってゆくことができます * 新しい、おもしろいアイデアが頭の中にひらめくようになります 1998.9.28記




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