Books 1998/5


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筒井康隆『文学部唯野教授』岩波書店(1990) 書評とは
T.イーグルトン『 新版 文学とは何か−現代批評理論への招待−』岩波書店(1997) ポストモダン
マイクル・ヤング(窪田・山元訳)『メリトクラシー』至誠堂(1982) 能力主義社会のいきつく先
小谷敏『若者たちの変貌−世代をめぐる社会学物語』世界思想社(1998) 社会環境と若者の各世代の心の習慣(心性)
山口勧編著『社会心理学−アジア的視点から』3訂版 放送大学振興会(1998) 文化と心理過程(心性)
草場安子『現代フランス情報辞典−キーワードで読むフランス社会』大修館書店(1998) フランス事情
 


筒井康隆『文学部唯野教授』岩波書店 (1990) \1300
現在は 同時代ライブラリー(1992年)

この本は小説ですが評論について紹介・批判しています。初読は1990年。斜め読みでいいだろと読み始めたらまた全部読んでしまいました。おもしろい。同時代ライブラリーの方は未読。

目次
第1講 印象批評
第2講 新批評(ニュー・クリティシズム)
第3講 ロシア・フォルマリズム
第4講 現象学
第5講 解釈学
第6講 受容理論
第7講 記号論
第8講 構造主義
第9講 ポスト構造主義

 主人公は早治大学文学部教授で実際に小説も書いている。早治大学の講義科目は「比較文学論」であるが,この小説は非常勤でいっている立智大学の「文芸批評論」の講義が目次になっている。

出だし

 大学の講義は12分遅れで始まり12分早く終わるのが常識とされている。これをだいたい正確に守れぬ教授は学生から教授として扱ってもらえない。だから唯野も正確に12分早く・・・

4月から夏休みまでの9回の講義の間に大学で起こるあれこれ(学内政治,教授の価値観と行動,人間関係,授業)を例によっておもしろく展開させている。本書は基本的に大学内幕もので,その目新しさは講義をそのまま9回もしてしまうところである。普通なら,1,2回例を挙げるだけだろうけどね。そこに当然大きな意図があるとみるべきでしょうね。

もう少し細かく見てみよう,
ここで描くのは(1)大学教員の生態(2)大学の講義(3)文芸批評のありかた(4)文芸批評家に対する批判など。

(1)の大学教員の生態は面白おかしく集中的に書かれているのでコメントすることもないし,制度的な側面は註になっているので大学教員組織とはいかなるものかわかるだろう。この当時話題になっていた大学関連の事件をいくつもパロっている。例えば,広島大学で助手が大学内で教授を殺して砂をかけていた事件,東京外大の助教授が教授に昇進できずに中央大学に移った事件。たくさん知っているほど楽しめる。

(2)の大学の講義は,わかりやすく講義するとはどういうことかを具体的に示してしまっている。わかりにくいとか人気がないというのはどういくことかも議論されている。ただ,単位が取りやすいということには触れられていない。
 この講義で90分−12分×2=66分しゃべることになることになるかな。ロシア・フォルマリズムのだいたいの文字数が6280語だから,充分足りていますね。受講生が多いことからゆっくりしゃべる必要があるのでもっと時間がかかるかもしれない。

(3)は講義内容になっている。

(4)はあちこちで出てきている。一番大きな皮肉は9回の講義レベルくらい知っておけよというところだろう。1回目の印象批評は普通ならこんなに時間をかけないはずだから,経済人類学者の議員さんなど素人レベルの批評者たちにたっぷり文句をいいたかったのかな。
そのほか直接批判しているところ
第1講 p33
 イギリスでもそうらしいんだけど,大学教授が新聞雑誌に何か書く場合,大学でやってる厳密で専門的なことの息抜きってことが多いんだよね。畠違いの小説の批評を息抜きでやっちゃいけない。こういう印象批評,あるいは印象批評以下の『面白い』『面白くない』だけの無責任な読書感想文だけはやめようね。

p34
自分が偉いと思わなきゃできないという意味で,こうした規範批評も,印象批評と同じ穴の狢だからね。やっつけようよこういうの。最後に,こういう批評に対して大江健三郎の書いていることを引用します。・・・。『文学理論は必要です。評価する・あるいは否定する根拠なしの,あいまい主義的な批評にさらされているわが国の作家たちには,・・・。気分次第で賞(ママ)めたり叱ったりする親ほど教育的でないものはないように,あいまい主義的な批評が若い作家をよく育てうるとは思いません。』

第3講 p101
野田耽二という作家の『海霧(ガス)』という作品は,海霧(ガス)という形のないものを擬人化して,そのつぶやきのようなものをあちこちへはさみこんでいます。・・・。・・・これが股辺直巳という批評家の手にかかると,・・・

「股辺直巳」というの 第9講 p296の註(10)にある渡部直己をパロっているのでしょうね。新潮社の宣伝紙『波』に筒井康隆氏が連載していたときに,氏の『虚航船団』新潮文庫に対する批評として(大ざっぱな記憶でかくと)「文房具のような登場人物には共感できないのでダメだ」というようなことをいったそうだ。このあたりにこの小説を書く動機の一端があったのではないか。8講 p268-269 「じゃ,そうやってあなたに復讐されたこととそもそものその理由を45枚くらいの文学的言説で公開しましょ」というところね。あやしい。『虚航船団』をめぐる批評に対する批評は,筒井康隆『虚航船団の逆襲』中公文庫に詳しい。でも渡部氏の名前がでていないから,上の雑誌波の話は私の覚え違いの可能性もあるな。しかし,『虚航船団の逆襲』を読めば批評理論も知らない文芸批評家の批評のレベルをきびしく指摘し,論難しているのでこの段落の趣旨はキープできる。

第8講 ノーロップ・フライの紹介の中で次のようにいってます。
p254
 趣味的な文芸評論家は,講演や軽い随筆みたいな批評をやるけど,これはちっとも科学的ではなくて,別の種類の文芸だ,思いつきを拾い集めただけのものだと言ってます。そして多くの批評は,架空の株式取引所で作家の株価を上げたり下げたりする文学的なおしゃべりに過ぎないと言ってます。

 この講義の予定は前期は夏休み明けに1回復習をして終わり。合計10回。普通は15回であるので,唯野先生が目安としていっている範囲に収めている。すでに3回休講している。後期の予定は,フェミニズム批評,マルクス主義批評のあとは唯野教授の批評の方法論。ということは,7回程度独自の批評法を話すことになる。

フェミニズム批評,マルクス主義批評などを簡潔に紹介し,そのほかの批評法を含めて練習問題もついている,ラマーン・センデル(鈴木良平訳)『現代の文学批評−理論と実践』彩流社(1994,原著 1989)などもいいかもしれない。


講義内容はイーグルトン『文学とは何か』岩波書店を元にしているが,イーグルトンの本の目次は次のようになる。
英文学批評の誕生/現象学,解釈学,受容理論/構造主義と記号論/ポスト構造主義/精神分析批評/結論−政治的批評

これを見て気づくのは,筒井康隆氏が一番影響を受けているはずの「精神分析批評」が『文学部唯野教授』に入っていない。『家族八景』などの七瀬シリーズはまさにそのもの。筒井康隆『トーク8』徳間文庫のなかでも岸田秀氏とフロイトやユングについて語っている。筒井氏の場合,理論を創作に利用できるタイプなんだね。「実験的手法」という言い方をあちこちでしている。『虚航船団』新潮文庫においては記号論が念頭にあったような発言が『虚航船団の逆襲』中公文庫のなかに見られる。『文学部唯野教授』において2カ所で取り上げられているトマス・ピンチョンなんかも,理論から創作できるタイプらしい。トマス・ピンチョンは2回でてきている。第3講のp76(ページ数はいずれも1990年刊のハードカバー版)
トマス・ピンチョンの『重力の虹』なども買った。あんな部厚い本,翻訳されることはまずあるまい。誰それが翻訳をはじめているという噂はよく聞くのだが,出版されることはあるまいな。たとえ翻訳がでても・・・

1993年に国書刊行会から出版されました。
第8講 p251に「あくまで姿を見せずに小説を書き続ける作家の例としてトマス・ピンチョンの例を挙げている。ちくま文庫の『スロー・ラーナー』の解説ではなかなか徹底した人のようですね。古い写真が2枚あるだけだそうです。

では『文学部唯野教授』を少しだけ分析してみると,「まじめ」と「いいかげん」の対立が中心にありますね。講義内容と講義スタイル,講義と学生(ハイデッガーを読んでこいといっても2人しか読んでこないし,受講生が少なくなった),学部長と唯野教授等,蟻巣川教授(主任)と唯野教授(教員がかるあるべしというものと,女に対する態度は両者で逆),唯野教授の女に対する態度(榎本奈美子と友人の女)というように,同一人物のなかでも対象や場所によって違ってくる。ポストモダニズム小説としては重要なものですね。繰り返しの技法も意図的に使ってますね。あとはイーグルトンの本とここでしている講義の違いを比較すると何がいいたいかが見えるところがありますね。でも講義は戯れとしてあるとしたほうがいいですよね。先に書いたように精神分析批評がないというのは唯野教授の自分の批評法の中心をしめると考えていいでしょうね。作者の意図というのも否定するでしょうね。実際筒井氏は否定している。でもまったくないというかというと,そうまで言わない(『虚航船団の逆襲』p165)。

第5講の補講としては,
筒井康隆 新潮カセット講演『誰にもわかるハイデガ−』録音資料 新潮社 90/10
がありますね。

第9講 p297 にでている筒井康隆の『ポスト構造主義による<一杯のかけそば>分析』は確か新潮社の雑誌『波』にでていたのだけど,今は 
筒井康隆『文学部唯野教授のサブ・テキスト』文春文庫(1993,初/1990)
に入ってます。
筒井康隆氏のホームページ
筒井康隆・単行本刊行リスト( 津村一昌 )
筒井康隆大辞典全著作目録(収録作品リストつき)
1998/05/19記


T.イーグルトン(大橋洋一訳)『 新版 文学とは何か−現代批評理論への招待−』岩波書店(1997.02.26) ¥3,600
Eagleton,T.(1996) Literary theory. 2nd ed. Blackwell

原著の初版は1983年,訳本は1985年発行。初版の訳本は筒井康隆『文学部唯野教授』岩波書店中の講義の種本になっている。新版では,「新版のはしがき」と「文学理論の現在−新版あとがき」のみがあたらしい。訳も最小限の修正をしたものに新版の追加部分および「訳者あとがき」を追加したものである。印刷をみても前の版をそのままつかったところと新しいところでは活字のにじみなどが違って見える。初版を読んだ人は,活字が細いところだけを読めばいいだろう。

目次
 序論−文学とは何か?
 1 英文学批評の誕生
 2 現象学,解釈学,受容理論
 3 構造主義と記号論
 4 ポスト構造主義
 5 精神分析批評
 結論−政治的批評
 文学理論の現在−新版あとがき

よき批評というか批判書はよき入門書となるという例であろう。モチベーションリサーチの批判書 パッカード『かくれた説得者』ダイヤモンド社もモチベーションリサーチの入門書としてよまれた。

もっとも,イーグルトンはintroduction 入門ということばを入れている。記述のレベルからすると大学上級生もしくは大学院での入門書のようである。簡潔な紹介とその限界・問題点などが指摘されていていい。それが入門といっているところだろう。

イーグルトンはマルクス主義批評の論客である。この本でもそのような視点から各批評法をフーコーのように徹底的に批評している。

入門といいながらレベルが高いのは精神分析批評ではフロイトだけでなくラカンを持ち出していることからもわかる。

岩波書店の紹介では

近現代の世界の文学の様々な潮流を見極め,文学の問題を論じ尽くした画期的な名著の10年ぶりの増補改訂版.明確なる視座に立ち,ポストコロニアル批評,新歴史主義,カルチュラル・スタディーズ,あるいはフェミニズム批評など,この10年間に起こり,更新し展開した文学の,さらには言論をめぐる動向を大きく俯瞰し,精細に論じる.20世紀の文学を明快に語りながら,文学の未来に向けて大きく踏み出したヴィヴィッドな1冊!

となっている。ポスト構造主義,ポストモダンのいい解説書となっている。

日本ではポストモダンとあいまいに言われる言葉も,postmodenity と postmodernism をきちんと区別している。
postmodernity ポストモダン性は「より包括的で,より歴史的で,より哲学的な用語」。
postmodernism ポストモダニズムは「狭義の,もっと文化的で美学的用語」。 p351

p352
postmodernity
ポストモダン性とは,近代性(モダニティ)の終焉を意味する。近代性とは,たとえば真実とか理性とか科学とか進歩とか普遍性の解放といった,啓蒙主義よりこのかた,近代思想の特徴とされてきたものをめぐる大きな物語のことである。ポストモダン性にとって,これまで近代がはぐんでいたやくにたたない希望など,すでに歴史において信用を失墜したものである。・・・
「反根拠主義者」の信奉するポストモダン性にとって,わたしたちの生の形式は,相対的で,無根拠で,自足的で,たんなる文化的約束事とか伝統によって構成され,そこに確固たるいかなる起源も,またいかなる壮大な目標もない。・・・わたしたちは,自己の活動を合理的に根拠づけることなどできない・・・。こうしたことすべてをひっくるめて考えると,ポストモダン性をめぐる議論とは,フリードリッヒ・ニーチェの哲学のながたらしい脚注の一種である。

ポストモダニズムの芸術は,
p353
形而上的深みを追放して,ある種のよそおわれた深みのなさを,遊戯性と情念の欠如を招き入れる。そこにおいて支配的なのは,快楽と表面とつかのまの強度からなる。この芸術形式は,確定的な真実なり確実性すべてを疑うため,いきおい諧謔的なものとなり,その認識論は相対主義的であり,懐疑的なのである。・・・。・・・みずからの「相互テクスト的」性質に,また他の作品のパロディ的なリサイクル−−だが他の作品もすでにリサイクル以外のなにものでもないのだが−−に,注意を喚起する。

う〜ん。筒井康隆の作品解説を読んでいるようですね。

ポストモダンおよび最近のナショナリズム的傾向,多文化主義やローティのような発想がでてくるところを知るのにいい。

初版でのポスト構造主義の考えのうち,アメリカ型のポスト構造主義のように徹底的相対化をおこなっているのがポストモダンの動向であった。1983年という早い時期にそれを紹介しているのはすごい。しかし,それが今後の動向を決めるものであるとは読めなかったようである。にもかかわらずポスト構造主義の解説はすばらしい。

「以下内容レベル」
視点を明確にして批評する流れが新批評,精神分析批評,マルクス主義表,フェミニズム批評であろう。客観構造があるとするのが,現象学,構造主義および一部ポスト構造主義である。それに対して,解釈学や受容理論では作者よりも受け手側をメインにおいている。そこでは,イーグルトンが指摘している「快楽」のようなものも重視されてもいいが,知的に流れている。

批評を全体にみると次のようになるだろう。

印象批評(これの批判は筒井康隆が詳しい)
(批評の観点重視)→新批評→精神分析→マルクス主義→フェミニズム 
(分析形式)  →フォルマリズム→構造主義(記号論)→ポスト構造主義
(客観的読みとり)→現象学
(受容者)      →解釈学→受容理論

これらの手法は相互にからまって,互いに発展させている。さらにその極端への展開がさらに虚無的方向へとすすめたようである。例えば,些細なことがらや書かれなかったことにイデオロギーをみつけるポスト構造主義はどんなイデオロギーもみつけることができてしまう。受容理論におけるような多様な読みとりはどんな読みとりもできてしまってテキストをはさんだ単なるおしゃべりになってしまう。これらは批評法の批評に進んでいる。もう一度自分の立場を立て直さなくてはいけないのだろうが,テクストのメタ認知である批評から批評のメタ認知の批評の批評の両方がからまって変な居直りが現代の動向のようだ。

p214 に
「ポリセミック」な複数の意味がいっせいにひしめきあう
とある。しかし,ミハイル・バフチンの「対話」「多声性(ポリフォニー)」の概念のあたりまで攻め込まないのはもの足りない。「テクストとは複数の意識の対立の場である。」
土田・神郡・伊藤『現代文学理論』新曜社(1996,\2400)がいろんな批評概念,方法を具体例を入れながら簡潔に説明していて本書を補うのに格好の書となっている。具体的手法の適用はラマーン・セルデン(鈴木良平訳)『現代の文学批評』彩流社(1994,\2816)がいい。

なお,この本のあとにでたポストモダンの本もやっと訳がでるようだ。
イーグルトン『ポストモダニズムの幻想』 大月書店 98/05/22 \2,600

1998/05/20記


マイクル・ヤング(窪田・山元訳)『メリトクラシー』至誠堂(至誠堂選書9)(1982)
Young, Michel(1958) The rise of the meritocracy. Thames & Hudson Ltd, London.

ディストピア(反ユートピア)系の小説。2033年にかかれた文書ということになっている。
meritocracyという単語はヤングが作った。Merrian-Webster のインターネット版(http://www.m-w.com/cgi-bin/dictionary?meritocracy) でもこの本の出版年度があがっている。
この語は社会学事典のみならず,大辞林第2版(CD-ROM版)にもでている基礎教養用語。「能力主義」「業績主義」と訳されることもあるが,それとは同じでないという辞典(濱島朗ほか『社会学小辞典(新版)』有斐閣,1997)もある。
メリット=知能+努力」。p112
 仕事は,「おのおのが能力にしたがって,以上でも以下でもない」ように与えることがいいとする。

p139 社会の各層で,知能と仕事とのつりありをとることが,能率と人間性を発揮するものであり,生産性の原動力と同時に,人類を開放するものである

・・・・・・ 現代思想の原理は,人間は不平等であるということにあり,したがって,それぞれの能力に適した地位を与えるべきであるという道徳的命令がでてくる。

 ここでも心理学者が最大限活躍する社会が描かれ,その結果の異常性と崩壊を描いている。ディストピア小説(ユートピアの反対)として,
ハックスリー,A.L.『すばらしき新世界』講談社文庫(1974,1932)ハクスリーと書かれることが多い
ジョージ・オーウェル『1984年』早川文庫(1972,1949)
の2冊も見逃すことができない。条件づけの『すばらしき新世界』,洗脳の『1984年』と心理学を追求すると悪い方に行く可能性を示している。

 教育も能力に従って教育期間や教育の質を決めることにしている。メリトクラシーが徹底していくと,だんだんと能力による階級ができてくることも示している。
 メリトクラシーの最初の段階は第2次世界大戦後の日本で起こったと言っていいだろう。団塊世代を中心に成績によっていい会社につとめていった。といっても社会学の調査ではこの言説に否定的である。(一流大学と他大学と分析が本にあるが有意差がなかった(1990『現代日本の階層構造1-4』東大出版会 ))。しかし,東大生の親の年収が慶応大生の親の年収よりも平均で高かったという報告がかつてでているように,なにかあるはずである。
『メリトクラシー』でも2回戦は格差拡大へと進むとしているように,一元的価値観のもとで教育や社会を構成していると格差は拡大していくだろう。

クリストファー・ラッシュ『エリートの反逆−現代民主主義の病』新曜社(1997)
では「才能の貴族制」ということばを使っている。階級間の知能の再配分。

この本と別の視点からいうと能力をのばすことはいいのか?
ラッシュが別の本で指摘している「セラピー社会」を極限化するとどうなるのだろう。

1998/05/20記


小谷敏『若者たちの変貌−世代をめぐる社会学物語』世界思想社(1998/4/30) \2,200
 全共闘世代,谷間世代,新人類世代,団塊ジュニア世代の各世代の育った環境,そのメンタリティを論じている。

目次(節は適宜省略))
序章 再び若者論を読む
   1 世代の循環
   2 世代論は有効か
   3 「奪われた青年期」と「奪われた子ども期」
   4 再び若者論を読む
I ベビーブーマーの反乱
 1 学生の反乱とは何だったのか
 2 全共闘と近代日本
II 大人になれない若者たち
 3「尊師」は,われらが同時代人−麻原彰旻と70年代の青春
   2 「モラトリアム人間」たちの来歴
 4 若者文化とハルマゲドン−80年代文化とその末路
   1 情報化と消費社会化の10年
   2 「ガンバリ教」の崩壊
   3 「新人類」世代の「心の習慣」
   4若者文化のハルマゲドン−あるいは隠喩としての「おたく」
 5 世紀末若者絵巻−「壁」が崩れた世界のなかで
   1 目に映ずる世相−「団塊ジュニア」の登場
   3 情報爆発のなかで−若者たちの原子化と無知
     1 他者たちへの無関心 
     2 「若者文化」の終焉
     3 大学「ユニバーサル化」のなかで−若者たちの「無知」(1)
     4 情報化社会への適応形態−若者たちの「無知」(2)
     5 歴史意識の欠落
   4 若者たちの社会参加−震災ボランティアの可能性

若者論がブームとなった時期と対応して世代を分ける(p6)
(1)学生反乱直後の70年代初頭--「団塊」世代
(2)若者の社会からの退行,政治的保守化が喧伝された70年代末(77,78)--「モラトリアム人間」=谷間世代
(3)ニューアカブームや高度情報化,バブル景気との絡みで新人類論が喧伝された83-6--「新人類」世代
(4)ブルセラ,援助交際等の少女文化。オウム真理教事件,震災ボランティア等の現象が錯綜して論じられら93-95--「団塊ジュニア」世代
これらあ4つの世代の若者の育った環境とそのメンタリティ(心の習慣)を論じている。

 いくつか面白い指摘がある。 (1)個人主義をベラー(『心の習慣』みすず書房)のアメリカの4つのタイプの個人主義((a)神と対峙する人間の良心を強調する「聖書主義」(ピューリタン)
(b)市民としての政治的自立に価値をおく「共和主義」(ジェファソン)
(c)巨富を追求する個人の経済的自由を強調した「功利主義」(ハミルトン,ベンジャミン・フランクリン)
(d)世俗の拘束を離れ,ひたすら「自分らしさ」を追求しようとする「表現主義」(エマソン,ソロー,ホイットマン)

 ベトナム反戦のときは,ハミルトン(物欲と帝国主義)のアメリカを否定し,ジェファソン(人民主義)のアメリカをの再生を求めて立ち上がったが,幻滅のうちに終わる。

アメリカの個人主義の根底には,「有意味な活動は,人々の協働を通してのみ可能となるのだから,集団は人々の目的達成のための不可欠の道具である。したがって,集団を欠いた個人は無力な存在でしかない。」ということがある。この点日本の個人主義と大きく異なる。
「孤立と放恣(個人の欲望の全面肯定)の個人主義」=やりたい者が,やりたいことを,やりたいようにやる。というのが全共闘の組織原理にあらわれているそうだ。ふ〜ん。

「モラトリアム人間」世代は「遊び集団」が欠落し,自分の優れた能力を,他者たちの幸福のために用いようとしない。p133 東京オリンピック以後の遊び場の喪失
 「重要な他者」と出会わない。
 欠点=(a)「こらえ性のなさ」
   (b)「高すぎる自尊心」と,それを満たすにはあまりにも「低すぎる能力」との落差によって生じる葛藤であった。p149

「新人類世代」 「(80年代の)情報化は,人々の間に共有されていた自明生を突き崩した。現実に対処するための堅固な足場を失った人々が,不安感や空虚さにとらわれたとしても何の不思議でもない。
「ガンバリ教」の崩壊 「個々人は完成を目指して努力しつづけるように駆り立てられている。もしも個人がその目標を達成すれば,社会は個々人によって創りだされるものであるから,それ自体完璧なものになることができる。」=「完璧な社会を目指して」仮説(Smith,1983))

「団塊ジュニア」世代  無知であることのほうが情報社会化に適合的である。膨大な情報にさらされて生きる今日,そのすべてを「知識」として「内部化」することは不可能である。情報の「外部化」


現代の幼児教育の姿勢が日経新聞 1998/05/21 「女たちの静かな革命」(第5部(2))のなかにでています。インターネットではこちら
 教育評論家の小宮山博仁は早期教育の多様化の背景について、「自ら受験戦争をくぐり、社会に出た経験から、知識よりも協調性や創造力が重要であることに気付き始めた母親たちが、早期教育の知育離れを促している」と指摘する。
幼児のときから知識を求める必要はない。それでも教育機関に求めてしまう現代の親たちの病理がでている。この時期に必要なのは「遊び」である。小学校でも1日の3割程度(いいかげんな数字)は遊びが必要だ。そこがまだ今の親にはわかっていない。

著者は「あとがきと謝辞」のなか(p265)で
・・・という「父性」の役割は,生身の父親というよりはむしろ,マチやムラのなかで「他人」たる大人たちが担ってきたのではないか。かつてマチやムラが担っていた教育機能のすべてを,弱体化した家族と学校に押しつけてしまった。今日の家族・学校・そして若者の問題の根幹は,ここにある。
同じマチやムラの役割の指摘がAERA(朝日新聞社) '98.5.18,第11巻19号 『「いい母親」の過干渉の罪』という記事の p25にある。
 所長で和歌山大学教授の山本健慈さんは,いまの子育て環境について,家族だけで子育てするのは人類史上初めてのことだと,その難しさを説明する。
「昔は,親は子どもにご飯を食べさせていただけで,地域のみんなで育てた。今は家族だけ,母親だけになっている。子育てはもっとも難しい応用問題なのに,ぶっつけ本番でやらなければいけない。だから,母親や家族に『しっかりせい』とは言うな。それだけで母親たちにはプレッシャーになる。ダメな家族でもいい。それを丁寧にフォローしてくれるところが必要だ。
前半部はちょっと信じられないですね。これは小谷の指摘とは似て非なるものである。 地域で育てるという機能は重要でしょう。しかし,それは丁寧にフォローするというものではないはず。適当にフォローするというものではないか。拡大家族のときには祖父,祖母,兄弟など家族内でもフォローできる。また,地域のなかには異年齢を含む友達もいろんな意味のフォローした。そういうことも考えて単純に地域の大人と考えてはいけない。
 地域での相互援助にはめんどうなつきあいをたくさんしなければならない。そちらを除いて地域からメリットだけを受け取ることはできない。指摘としては重要だが,どう実現するかとなると難しい問題が山積みだ。コミュニティは再生できるのか。それも移動性の高い社会のまさに仮の宿たる地域でしかないところで。

 世代の比較を考えると,この本にもあるように環境論ということになる。世代論という考えの方の必然的方向性であろう。

1998/05/25記


山口勧編著『社会心理学−アジア的視点から』3訂版 放送大学振興会(1998.3.20) \2000


3訂版で大きく内容を変えている。アジア的視点からという副題にあるようにアジアの日本,中国,韓国を章たてしている。そして,集団主義,個人主義が中心的話題として取り上げられている。


目次
1.アジアの社会心理学  (山口勧)
2.研究法入門 (山口勧)
3.個人主義と集団主義   (山口勧)
4.自己−文化心理学的アプローチ (北山忍
5.文化の継続性について  (嘉志摩佳久)
6.集合性の理論−グループ・ダイナミックス杉万俊夫
7.日本人の社会的行動1−コントロール観−(山口勧)
8.日本人の社会的行動2−信頼− (山岸俊男)
9.日本人の社会的行動3−甘え− (山口勧)
10.日本人の社会的行動4−紛争の解決− (大渕憲一)
11.中国人の社会的行動1−中国文化における対人関係のダイナミックス−(梁覚)
12.中国人の社会的行動2−中国文化における対面− (梁覚)
13.韓国人の社会的行動1−恨− (金義哲)
14.韓国人の社会的行動2−我々意識−(金義哲)
15.文化間のコミュニケーション (渡辺文夫)

放送大学の社会心理学の目次はだいぶ違っています。
例えば,2章は「方法論・固有文化心理学」だったものが「研究法入門」という普通のものに変わっています。5章は「文化の概念とカテゴリー」が「文化の継続性について」,7章は「文化とステレオタイプ」が「集合性の理論」になっている。全然違う章になっているようですね。なぜ,放送大学振興会のほうでは修正しないのかな。ページ数も180頁から166頁ですから少ない。

 この本は新しい試みをした面白い本と言える。その一つはアジア的視点という副題が示すように,日・中・韓国を取り上げ,従来の欧米人の心理学を相対化しようとした点である。それはまた,比較文化の要素を多くもっている。コントロールに関する観点などは従来文化差についてテキストで触れることもなかったであろう。そういう多くの試みがいい。

 中国と韓国の対人行動について,個別的に触れているのも両国からの留学生や教員が増えているということからも実際に役に立つであろう。しかし,中国と韓国の章は心理学と言えるのだろうか。2章の研究法の説明からしても心理学研究とは言えないだろう。しかし,研究のないところからもなんらかのアプローチは必要という点から,私は最初の一歩としてこのようなものも可能であると考える。ただし,素朴心理学のレベルとしてである。2章にあるような研究分野の発展状況を全く無視した研究法はそれでいいのか。2章の研究法のなかで,これらの章(11〜14)をなぜ心理学のテキストの中に入れたのかきちんとした説明をすべきだろう。また,これらの章はどのような方法で客観化したのかについても語るべきであろう。文献研究のレベルもふまえていないように見える。

 この本のメインは「集団主義」と「個人主義」の問題であろう。文化心理学というのが最近よく言われるようになってきた。それはイーグルトン『 新版 文学とは何か』岩波書店(1997)にも指摘されているようにポストモダニティの現象として「わたしたちの生の形式は,相対的で,無根拠で,自足的で,たんなる文化的約束事とか伝統によって構成され」たものだから,文化をメーンに研究するのである。そして北山(1998)(『自己と感情−文化心理学による問いかけ』共立出版 p5 )

文化心理学では,心のプロセスを,各々の集団がその歴史の流れの中で蓄え,作りだしてきた社会・文化的プロセスの一部として理解しようとする。思考,感情,動機づけなど人の持つ様々な心のプロセスは,人がそこにある文化的慣習や集合的意味の体系に沿って反応し,その枠組みの中で行動することを通じて創りだされる。さらに,いったんこのようにして心のプロセスが作り上げられると,それは,このプロセスを作り出す際にかかわった文化的慣習や意味体系そのものを維持し,かつ変容する。

このテクストも同じような考えが中心にあるのであろうが,山口氏と北山氏は少しスタンスが違うように見える。

トリアンディスの集団主義および個人主義特有の傾向の対比表がp35にある。


集団主義および個人主義に特有の傾向(山口,1998の一部興味のあるところだけ抜粋)
集団主義的傾向個人主義的傾向
集団が社会的知覚の基本単位個人が社会的知覚の基本的単位
帰属他者の行動は,規範の反映であると解釈する他者の行動を,性格,態度によって説明する
自己自己を所属集団・対人関係で定義する自己は独立したものとみなされる
感情他人志向的(同情)自己に焦点がある(怒り)
認知状況に依存する状況に関係ない
価値安全・服従・義務・内集団の輪・階級・個人的な関係に価値をおく楽しみ・達成・競争・自由・自立・公正な取り引きに価値をおく
内集団似た者同士で集団を構成する(人種,血縁)獲得された属性によって集団を構成する(信念,地位)
社会行動公共のものを大切にしない一般化した公的規範に基づいて行動する

これらは特に立証されたものでもないとのこと。

山口は,個人の集団主義的傾向が,他者からの報酬を期待する傾向,他者から与えられる罰を恐れる傾向,そして異なった意見を持ったり独自の行動をしない傾向と結びついていると考え,その仮説を日本,韓国,アメリカでもあることを実証した(原論文を見ていないからどう実証したかしらない)。このような,どの文化でも個人の集団主義的傾向には共通した特徴があることを示すという方法は,いままでの方法と同じでさらに進展させていることになる。それは文化間の共通構造をはっきりさせるものである。ただし,34頁の図3−1のような各傾向間に因果関係にあるように描くのは納得できない。因果関係を立証したのだろうか?因果関係の立証はもっと厳密な論理と研究が必要なはずだ。拒否不安と親和傾向が個人の集団主義的傾向の要素であるという考えならまだ仮定は少ないはずだ。

中国人はアメリカ人に比べ,衡平な分配(働きに応じた分配)よりも平等な分配(各人同じだけ)を好む。集団主義的なものは衡平性よりも平等性を好む。(p36)

7章コントロール観も山口氏の執筆である。
日本語の「統制」は,主に,国が国民の行動をコントロールするという意味に用いられるのに対し,英語のコントロールは,自分の望むように何かを動かすことも意味する。というようにコントロールに対する考え方に違いがあるようだ。ワイツら(Weisz et al.,1984)の日米コントロール志向の違いを紹介している。
一次的コントロール二次的コントロール
自分のさまざまな行動により,現実に影響を与えることによって対象をコントロールすること現実に働きかけることなく,自分を現実に合わせようとすること。現実ではなく,自分の期待,願望,目標,知覚,態度,解釈,および原因の帰属を変化させる。例.「心頭滅却すれば火もまた涼し」。主たるコントロールの方法は次の4つ。予測的コントロール,代理コントロール(ひいきのチームの勝利に高揚する熱狂的ファン),幻想のコントロール,解釈によるコントロール。

アメリカは一次的コントロールが優位,アジアでは二次的コントロールが優位。しかしこの分類ですべてがわかるわけではない。それに対する注釈的反論を挙げている。「負けるが勝ち」は二次的ではあるが,それだけの意味ではない。「うまく負けることにより,自分の忍耐力や自己統制力および柔軟性を示すことができる。」つまり日本的価値観に合致している。などいろいろ説明。

この章で紹介しているくじ引きの例は面白い。個人でくじを引く条件と集団でくじを引く条件でくじをひかせた。どちらの群が良い結果がでると予想するかが,アメリカ人は個人条件,日本人は集団条件のほうが良い結果がでると予想している。アメリカ女性は集団のほうが良い結果と予想した。


北山の自己の章で彼の主張の簡潔なまとめがある。それをまたまとめる。実験例があるので原本をみるほうが納得しやすい。


西洋文化東洋文化
自己相互独立的自己観相互協調的自己観(意味ある社会的関係を見いだし,自らをその中の重要な一部分として認識し,また周りの人にそう認識させる)
自己認知状況にかかわらず比較的不変の内的属性特性(例.人格特性や才能)特定の,比較的具体的な社会的状況の中で定義される特性(例.役割,地位)
他者知覚社会的行動の原因を行為者自身の内的,心理的属性に求める(意図)当人が反応している社会的状況のほうに求める(外的要因)
心地よさ自己の独立という課題の性向によって引き起こされる「誇り」とか「有頂天」自他の相互協調という課題の性向によって起きる「親しみ」とか「尊敬」
動機づけ自らの中にあって,目標を生成し,その目標に向けて自分を駆り立て,それを達成しようとしむける心理的プロセス役割志向的動機。他者からの期待を「らしさ」として内面化し,そのような内面化された社会的期待へ向かって動機づけられる


北山は自己観によって心理的プロセスが変わってくるのだと主張している。先にあげた北山(1998)では文化がまずありそれが心理プロセスをつくり,さらにそれが文化を作っている,文化,心理過程相互作用説を提出している。

面白い考えで,新たな研究を生産する点でもいい。だが,注意深く論じる必要がある。なお,このような研究については北山(1998)でもう少し検討してみたい。がいつになるかわからない。北山氏の氏に対する反論に対する反論はここの「言いたいことは山ほどある?」


 もとにもどって放送大学のテキストとしてでているが,非常に冒険的である。その点評価できる。最初の構想の通りすすまなかったのは残念なことである。社会心理学のテキストもいろいろでているのでどんどん冒険もしてみよう。
 文化心理学の位置づけ特に社会心理学という厳密なパラダイムをもっているところでの研究法についてはもっとしっかり語って欲しかった。

 なお,このように文化によって違うといいだしたら,無限に違ってきて,イーグルトン『新版文学理論』が書いているようになる。その行き着く先の一つをポストモダンで述べたようにすべてが相対化され,なにも確実なものがなくなるということである。「こんにちは」と「how are you ?」で違う文化があるなら,「こんにちは」「もうかりまっか」「なんしょん(高松)」では当然文化は違うわけですから。家族ごとに文化があり,1人1人に文化があったりして,それじゃ文化ってなに。みんな違うし,同じ人間にも一貫した行動がないというのでは研究する意味はなくなるのですが。人間について語る必要はなくなるんだけどな。同一性と差異の両方を認める必要がある。


1998/5/27記

1998/7/24追記
120ページからでてくる、キーワードの「リャン」の漢字は「瞼」ではなく「臉」である。漢字は似ているけど全然違っている。
 これは中国からの留学生にきいてわかった。なお、日本での読みは「レン」のようだ。




草場安子『現代フランス情報辞典−キーワードで読むフランス社会』大修館書店(1998/5/20)\2,600
フランス情報というよりフランス事情という内容である。在日フランス大使館広報部資料室で役23年間つとめた間だの問い合わせに対応するために準備していたもので,NHKラジオフランス語講座テキストに1992〜1995年にわたり連載したものがベースにある。情報は1997年12月時点まで更新しているとのこと。
 あいうえお順でのア行の項目を挙げると,

 アカデミー,アカデミー・フランセーズ,天下り,アラブ世界研究所,アリアンス・フランセーズ,アリアン・ロケット,アルコール中毒,異教集団,犬,移民,宇宙飛行士,運転免許(証),映画,エイズ,エスカルゴ,エリゼ宮,お金,オリンピック,オレンジカード,恩赦,オンブズマン

見出し項目の中でもさらに小項目がたてられている場合もある。例えば,教育のなかでも幼稚園,小学校,中学校,高校,大学,大学校(グランド・ゼコール),教科書の無料貸与,教育費,学校給食,成績,私立学校,校内暴力,教師という小項目がある。統計データ,法律などを駆使して説明がある。「校内暴力」という小項目の説明では,
1996年3月,校内暴力が大きな問題として浮き上がってきた。全国平均でみれば,2校に1校が暴力問題が発生しており,パリの近郊では81%にも達している。農村地帯がまだ辛うじて救われる状態だが,それでも32%が暴力問題を抱えている。原因としては,授業についていけない無力感や将来への展望のなさ,が挙げられるが,深刻な問題となっている。(文献があるが略)
というように要領よく,しかも手広く紹介している。犬の説明では,「迷い犬はつかまえてから4日後に処分。首輪または刺青入りなら8日間まってくれる。」など,保険,養犬縁組み,交通機関等々いろんなことを知ることができる。「年齢」などでは,胎児,誕生,2,6,7,12,13,14,15,16,18,21,23,24,25,27,30,35歳でできるようになること,できなくなることが挙げられている。いやおもしろい。項目名はフランス語になっており,abc順に並んでいる。フランスではどうなっているの?という疑問をもったとき開くのもいいし,最初から読んでも楽しめる。

バカロレア(大学の入学資格試験)の説明にある一般コースの哲学の試験 S(scientifique)の96年の問題(Academie d'Aix-Marseille)
1)道徳は科学の中で果たすべき役割をもっているか。
2)幸福は人間にとって到達できないものか。
3)スピノザの「自由」についてコメントせよ。

本の中では書いていないが,たしか1問選択。 あなたはフランスの高卒レベルでしょうか?

1998/5/28記






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